ヒトラーはすぐに用件を切り出し、幽閉されていたムッソリーニの救出作戦について語り始めた。「この任務の達成を君に命ずる。戦争にとって極めて重大な任務である。そのためには権限内であらゆる事をやれ」と強く迫られたスコルツェニーは当初、困惑したが部隊の本格的な活躍の機会とみてこれを受け入れるよう決心する[11]。
「グラン・サッソ襲撃」の指揮を執ったスコルツェニーは9月12日、幽閉場所がグラン・サッソ山頂のホテルであることを突き止め、グライダー降下し、戦闘を発生させることなくムッソリーニを無傷で救出。面会したスコルツェニーが「ドゥーチェ!我がフューラーの命により救出に参りました!」と敬礼すると、ムッソリーニは「友人が私を見捨てない事は知っていたよ」と抱擁を交わしている[12]。スコルツェニーはムッソリーニの印象について以前より痩せていたが、独裁者としての威厳が保たれていたと回想している[13]。
救出されたムッソリーニは本来なら小型ヘリコプターであるFa223に乗って先に脱出する手はずだったが、Fa223の故障から小型飛行機のFi156に急遽乗り換えて脱出する事になった。ドイツ領へと逃れたムッソリーニは東プロイセン州ラステンブルクの総統大本営(ヴォルフスシャンツェ)へ護送された。この功績でSS少佐に昇進し騎士十字章を受章した。 1944年5月25日、レッセルシュプルング作戦[14]を指揮。ユーゴスラビアのパルチザン指導者、チトーをドゥルヴァルの近くの司令部から誘拐し、バルカン半島における共産主義抵抗勢力を壊滅させる作戦であった。部隊が司令部のある洞窟に到達した時、チトーは数分前に脱出した後であったため、作戦は失敗した。 1944年7月20日にヒトラー暗殺計画が実行され、クーデター派が重要機関を占拠しようとしたが、ベルリンにいたスコルツェニーはクーデター派の鎮圧に協力、反乱は36時間で制圧された。 1944年10月、ヒトラーはスコルツェニーをハンガリーに送った。密かにソ連との講和を画策していたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子ミクローシュ(父と同名)を誘拐して摂政を辞任させ、講和による在バルカン半島ドイツ軍の本国からの孤立を未然に防ぐ作戦であった。 スコルツェニーはウォルフ博士の偽名を名乗り変装し周辺の情報収集を行い、ミッキーマウス作戦が行われた。誘拐は成功したが摂政は講和の発表を強行。その後行われたパンツァーファウスト作戦によるクーデターは成功し、1945年4月までハンガリーには矢十字党率いる親ドイツ政権が存続した。 1944年10月21日、ヒトラーはアーヘンでアメリカ陸軍が鹵獲したドイツ戦車を自軍に使用した事からある作戦を発案、スコルツェニーをベルリンに呼び出し、アメリカ軍に偽装した戦車部隊の編制・指揮を命じた。グライフ作戦と名付けられたこの作戦は、アメリカ軍の軍服を着た20名以上のドイツ兵が鹵獲したジープに分乗し、M10駆逐戦車に偽装したパンター、アメリカ軍の塗装を施したIII号突撃砲などを率いて戦線の後方に侵入、アメリカ軍を攪乱する作戦であった。ドイツ軍の最後の大反攻となったアルデンヌ攻勢でこの特殊部隊はアメリカ軍を恐怖に陥れた。 一部の兵士は捕らえられたが、嘘の自白によって「部隊がパリを襲撃し、最高司令官のアイゼンハワーを誘拐または暗殺しようとしている」との噂を広めた。アメリカ軍の警備は強化され、アイゼンハワーは何週間も司令部に閉じこめられることとなった。この時「ヨーロッパで最も危険な人物」と呼ばれたスコルツェニーは、本作戦後1945年2月までソ連軍の押し寄せるドイツ東部を防衛する陸軍部隊を指揮した。 1945年1月30日、スコルツェニーはハインリヒ・ヒムラーから命令を受けた。当時、ヴァイクセル軍集団と国民突撃隊の指揮を務めていたヒムラーの命令は普段は訳の分からない点が多かったがこの時ばかりは、明確でポイントをついていた。命令の内容は「できるだけ多くの兵力を集めて直ちにオーデル川の東岸に橋頭堡を築け」というものであり、また「この橋頭堡は、後の攻勢のための発起点として用いるので十分なものでなければならない。また、オーデルへ向かう途中で赤軍に占領されているフライエンヴァルデ
チトー誘拐
ホルティ息子誘拐
アルデンヌ
オーデルの戦い東プロイセンの前線を視察するスコルツェニー(1945年)
スコルツェニーがこうした活動にあたっている最中、国家元帥であるヘルマン・ゲーリングから電話がかかってきた。ムッソリーニ救出の活躍を称え、スコルツェニーの気持ちをくんでいたゲーリングは、翌日、自分の別荘である「カリン・ハル」から「ヘルマン・ゲーリング師団」に属する精鋭600人からなる1個大隊を送ってきた[19]。この部隊の兵員はその殆どが空軍の搭乗員の出身で、搭乗機がないまま地上勤務についた連中で驚くほどに経験不足であった。これらの若い兵士を見たスコルツェニーは彼らが長く持ちこたえられないだろうと考え、騎士鉄十字章を受けていたその部隊の指揮官である少佐の反対を押し切って自分の配下の各部隊に編入してしまった。こうして兵力の配備は完了し、この混成部隊は師団並みの戦力に膨れ上がっていた。総計で15,000人の将兵を指揮下におさめたが、ヨーロッパ各地のあらゆる兵士を集めたと言ってよく、その中にはソ連の兵士までまじっており、この部隊は『シュヴェット師団(Division Schwedt)』と正式に命名された。しかし、スコルツェニーが戦後語るところによればシュベット師団は「小型のヨーロッパ連合」の様相であり、彼自身は「ヨーロッパ師団」と呼んでいる[20]。