オットー・スコルツェニー
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ヒトラーは「諸君に尋ねるが、諸君らはイタリア人をどう思うか」と続けると「枢軸の盟友」「防共の味方」といった応答が交わされたが、スコルツェニーは「総統、私はオーストリア人です」としっかりとした口調でこたえた。これは、ヒトラーが同郷で、南チロルを奪ったイタリアについて自分が言わんとしたことをさとってくれると思った発言であり、すると、ヒトラーはスコルツェニーを見つめ「他の者は下がってよろしい。スコルツェニー大尉、君と話したい」と述べスコルツェニーは部屋に残されヒトラーと2人だけになった[10]

ヒトラーはすぐに用件を切り出し、幽閉されていたムッソリーニの救出作戦について語り始めた。「この任務の達成を君に命ずる。戦争にとって極めて重大な任務である。そのためには権限内であらゆる事をやれ」と強く迫られたスコルツェニーは当初、困惑したが部隊の本格的な活躍の機会とみてこれを受け入れるよう決心する[11]

グラン・サッソ襲撃」の指揮を執ったスコルツェニーは9月12日、幽閉場所がグラン・サッソ山頂のホテルであることを突き止め、グライダー降下し、戦闘を発生させることなくムッソリーニを無傷で救出。面会したスコルツェニーが「ドゥーチェ!我がフューラーの命により救出に参りました!」と敬礼すると、ムッソリーニは「友人が私を見捨てない事は知っていたよ」と抱擁を交わしている[12]。スコルツェニーはムッソリーニの印象について以前より痩せていたが、独裁者としての威厳が保たれていたと回想している[13]

救出されたムッソリーニは本来なら小型ヘリコプターであるFa223に乗って先に脱出する手はずだったが、Fa223の故障から小型飛行機のFi156に急遽乗り換えて脱出する事になった。ドイツ領へと逃れたムッソリーニは東プロイセン州ラステンブルク総統大本営ヴォルフスシャンツェ)へ護送された。この功績でSS少佐に昇進し騎士十字章を受章した。
チトー誘拐

1944年5月25日、レッセルシュプルング作戦[14]を指揮。ユーゴスラビアパルチザン指導者、チトーをドゥルヴァルの近くの司令部から誘拐し、バルカン半島における共産主義抵抗勢力を壊滅させる作戦であった。部隊が司令部のある洞窟に到達した時、チトーは数分前に脱出した後であったため、作戦は失敗した。

1944年7月20日にヒトラー暗殺計画が実行され、クーデター派が重要機関を占拠しようとしたが、ベルリンにいたスコルツェニーはクーデター派の鎮圧に協力、反乱は36時間で制圧された。
ホルティ息子誘拐

1944年10月、ヒトラーはスコルツェニーをハンガリーに送った。密かにソ連との講和を画策していたハンガリー摂政ホルティ・ミクローシュの息子ミクローシュ(父と同名)を誘拐して摂政を辞任させ、講和による在バルカン半島ドイツ軍の本国からの孤立を未然に防ぐ作戦であった。

スコルツェニーはウォルフ博士の偽名を名乗り変装し周辺の情報収集を行い、ミッキーマウス作戦が行われた。誘拐は成功したが摂政は講和の発表を強行。その後行われたパンツァーファウスト作戦によるクーデターは成功し、1945年4月までハンガリーには矢十字党率いる親ドイツ政権が存続した。
アルデンヌ

1944年10月21日、ヒトラーはアーヘンアメリカ陸軍が鹵獲したドイツ戦車を自軍に使用した事からある作戦を発案、スコルツェニーをベルリンに呼び出し、アメリカ軍に偽装した戦車部隊の編制・指揮を命じた。グライフ作戦と名付けられたこの作戦は、アメリカ軍の軍服を着た20名以上のドイツ兵が鹵獲したジープに分乗し、M10駆逐戦車に偽装したパンター、アメリカ軍の塗装を施したIII号突撃砲などを率いて戦線の後方に侵入、アメリカ軍を攪乱する作戦であった。ドイツ軍の最後の大反攻となったアルデンヌ攻勢でこの特殊部隊はアメリカ軍を恐怖に陥れた。

一部の兵士は捕らえられたが、嘘の自白によって「部隊がパリを襲撃し、最高司令官のアイゼンハワーを誘拐または暗殺しようとしている」との噂を広めた。アメリカ軍の警備は強化され、アイゼンハワーは何週間も司令部に閉じこめられることとなった。この時「ヨーロッパで最も危険な人物」と呼ばれたスコルツェニーは、本作戦後1945年2月までソ連軍の押し寄せるドイツ東部を防衛する陸軍部隊を指揮した。
オーデルの戦い東プロイセンの前線を視察するスコルツェニー(1945年)

1945年1月30日、スコルツェニーはハインリヒ・ヒムラーから命令を受けた。当時、ヴァイクセル軍集団国民突撃隊の指揮を務めていたヒムラーの命令は普段は訳の分からない点が多かったがこの時ばかりは、明確でポイントをついていた。命令の内容は「できるだけ多くの兵力を集めて直ちにオーデル川の東岸に橋頭堡を築け」というものであり、また「この橋頭堡は、後の攻勢のための発起点として用いるので十分なものでなければならない。また、オーデルへ向かう途中で赤軍に占領されているフライエンヴァルデの都市を奪還せよ」という命令でもあった[15]。スコルツェニーは目標のフライエンヴァルデの状況を集めていたが、奪還作戦は不可能とみていた。何故なら、この町について知る者がおらずまた、ヒムラーの司令部も総統大本営もソ連赤軍の位置を正確に把握していなかったからであった。結局、スコルツェニーはシュヴェットへ向かい、そこに橋頭堡を築こうとして翌朝の5時に1000人ほどの部隊を引き連れ出発した[16]。2時間後、スコルツェニーの部隊はシュヴェットの町へ到着し、すぐに偵察部隊を派遣すると共に部隊の司令所として適当な場所を探した。司令所を確保したスコルツェニーは早速任務にとりかかった。まず、彼は軍隊内部に漂っている厭戦的な感情を一掃するために前線から退却してくる兵士らを食い止めて必要に応じて自分達の部隊に勧誘していった。スコルツェニーにとって赤軍の猛攻に対抗して橋頭堡を守るには手に入る兵力は全て必要であったからである。この作業を進める傍ら、スコルツェニーはどんな兵力が集められるかと考えており、部隊には信頼のおけるフリーデンタール駆逐戦隊の隊員が含まれていたが、他は傷病兵や小銃をあつかえる一握りの工兵、地元の国民突撃隊1個大隊、殆ど訓練を受けていない老人や青年を含む国民擲弾兵師団の約600名の「精鋭」がいるだけであった。地元の部隊のうちで最もましなのは180名の士官候補生のグループであったが、この時たまたまシュヴェットへ向かっていた。こうして迅速に集められた寄せ集めの部隊は兵士の所属がなんであれ強引にすすめられたが、十分もとはとれたようであった。数日後、疲れきった第8騎兵師団所属の生き残りの部隊が町の大通りを通って来たのでスコルツェニーはこの一団を兵舎に迎えて部隊に組み入れた。こうして、部隊には少しずつ兵力が増え、ついには歩兵4個大隊に匹敵する兵力となっていった[17]。スコルツェニーは重火器の配備を行い工場から何門かの75mm対戦車砲を調達し、また、多数の機関銃の獲得にも成功した。それでも満足しない彼はこの地域で入手できる88mm高射砲を全てかき集め、これをトラックに搭載して自走砲兵予備斑として運用した[18]

スコルツェニーがこうした活動にあたっている最中、国家元帥であるヘルマン・ゲーリングから電話がかかってきた。ムッソリーニ救出の活躍を称え、スコルツェニーの気持ちをくんでいたゲーリングは、翌日、自分の別荘である「カリン・ハル」から「ヘルマン・ゲーリング師団」に属する精鋭600人からなる1個大隊を送ってきた[19]。この部隊の兵員はその殆どが空軍の搭乗員の出身で、搭乗機がないまま地上勤務についた連中で驚くほどに経験不足であった。これらの若い兵士を見たスコルツェニーは彼らが長く持ちこたえられないだろうと考え、騎士鉄十字章を受けていたその部隊の指揮官である少佐の反対を押し切って自分の配下の各部隊に編入してしまった。こうして兵力の配備は完了し、この混成部隊は師団並みの戦力に膨れ上がっていた。総計で15,000人の将兵を指揮下におさめたが、ヨーロッパ各地のあらゆる兵士を集めたと言ってよく、その中にはソ連の兵士までまじっており、この部隊は『シュヴェット師団(Division Schwedt)』と正式に命名された。しかし、スコルツェニーが戦後語るところによればシュベット師団は「小型のヨーロッパ連合」の様相であり、彼自身は「ヨーロッパ師団」と呼んでいる[20]


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