さらに、営業先の病院でもこのゲームを紹介したところ、入院中の患者の時間潰しやリハビリテーションに使えるとのことで好評を博した[23][52]。長谷川が担当していたある病院の医局長からは「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」と太鼓判を押されたという[23][注釈 12]。
手応えを覚えた長谷川は、仲間たちとともに実験・研究を繰り返し、このゲームをさらに改良することにした。当初長谷川は自作の8×9の盤を使っていたが、1970年10月にメルク(西ドイツの製薬会社)からチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、8×8のチェスボードを採用して、チェスボードに合った牛乳瓶の紙蓋を使用するようになった[54]。さらに、当初長谷川は間接挟みでも石を返すという現在よりもやや複雑なルールを採用していたが、直接挟みのみに限定した簡明なルールに変更した[54][注釈 13]。これにより、1970年頃、東京で現在のオセロと同様のゲームが完成したとする[54]。
完成したゲームには、当初黒と白の石をジャイアントパンダに見立てて「ランラン・カンカン」という名前(上野動物園のカンカンとランランに由来)が検討されていた[55]が、長谷川の父親で旧制水戸高等学校(水高)の英国文学教授であった長谷川四郎の発案で「オセロ」に変更された[23]。これは、英国文学の代表作であるウィリアム・シェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来する[23]。緑の平原が広がるイギリスを舞台にして、黒人の将軍・オセロと白人の妻・デズデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るという戯曲のストーリーに、緑の盤面上で黒白の石が裏返って形勢が変わっていくゲーム性をなぞらえたものである[23][55]。 1972年10月[56]、長谷川が玩具メーカーのツクダにオセロを持ち込んだところ、これが認められ、商品化が決まった[17][53]。 商品化に先立ち、1973年1月には日本オセロ連盟が設立され、同年4月7日には第1回全日本オセロ選手権大会が開催された[23][注釈 14]。 同年4月25日[55][50]に三越本店と伊勢丹本店で販売を開始し、4月29日[57][58]に全国で「オフィシャルオセロ」が発売された[注釈 15]。
商品化とオセロブーム