石の色については、黒白のものもあったが[45]、世界的には黒赤が主流となり、日本では源平になぞらえて主に紅白(赤白)の石を使った[46]。
リバーシは、早くから日本にも輸入され、「源平碁」という名前で発売された[1][31][47]。なお、名称は「源平碁」であるが、碁石ではなく表裏が別の色に塗り分けられた通常通りのリバーシの石でプレイされた[48]。
リバーシ(源平碁)は現在のオセロとよく似たゲームである[22]。しかし、現在のオセロほどの支持を得ることはできなかった[22]。オセロ発売当初の説明によれば、長谷川は幼少期に兄がプレイしているのを見てリバーシのことを知った[19]。その道具を1970年頃に東京で改良して復活させたものがオセロである[22][19]。
挟み碁囲碁の盤と石
近年の長谷川の主張によれば、オセロのルーツは、第二次世界大戦が終わって間もない1945年の夏に茨城県水戸市で長谷川が考案した簡易囲碁ゲーム挟み碁である[23][注釈 8]。
長谷川によれば、当時の長谷川と同級生たちは相手の石を囲んだら取れるという囲碁のルールがよく分からなかった[23]。そこで、長谷川の発案により、相手の石を挟んだら取れるという簡易ルールで遊んでいた[23]。その後、石を取るのではなく、相手の石を挟んだら自分の石と置き換えるというルールに改良し、現在のオセロに近いものとなった[23]。さらに、自分の石と置き換える作業を簡単にするため、碁石ではなく表裏を黒白に塗り分けた紙の石を裏返すというアイデアに至った[23]。挟み碁には「挟んだら裏返す」という基本原理以外に定まったルールはなかった[23]。盤面は長谷川が自作した8×8、8×9、9×10、八角形など多様な形状のものを使用し、「複数の石を挟んだときも裏返せる石は1個のみ」あるいは「挟んだ石のうち裏返したくない石は裏返さなくていい」など、そのときどきで様々なルールを採用してプレイしていた[28]。長谷川は、中学・高校・大学で級友とこのゲームを楽しんでいたが、大学卒業によって遊ぶ機会がなくなり、挟み碁は一旦姿を消すことになった[23][注釈 9]。
これが2000年頃から長谷川が主張するようになったオセロの起源である。
オセロの成立牛乳瓶の紙蓋
長谷川の発言には時代によって変化がみられる。
1964年当時、東京都で中外製薬の営業担当として仕事をしていた長谷川は、同僚の女子社員たちから何かゲームを教えて欲しいと頼まれた[23][注釈 10]。長谷川は囲碁・将棋ともに五段の腕前を誇り、最初はこれらのゲームを教えたが、難しすぎるとのことで上手く行かなかった[19][23]。また、妻にも囲碁を教えたが、これも上手く行かなかった[19][23]。そんな折に少年時代の記憶にあったリバーシもしくは挟み碁のことを思い出した[23]。そこで、自宅で妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋[注釈 11]を集めて石を自作し、女子社員たちにルールを教えたところ、彼女らが昼休みにこのゲームを楽しむようになった[23]。