オズの魔法使
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増田ゆき
津村まこと
小野英昭


TBS版:初回放送1974年3月4日『月曜ロードショー

NHK版:初回放送1987年12月20日 19:20-21:00 NHK総合NHK-BS2にて同時放送。

演出:岡本知、翻訳:志賀和泉、制作:グロービジョン


ソフト版:1990年頃製作。DVDなどに収録。

演出:蕨南勝之、翻訳:石原千麻、制作:ワーナー・ホーム・ビデオ/プロセンスタジオ


主要な楽曲左からブリキ男、カカシ、ドロシー、ライオン

虹の彼方に(ドロシー) - Over The Rainbow

みんな出てらっしゃい(グリンダ) - Come Out, Come Out...

鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ(マンチキン人) - Ding-Dong! The Witch Is Dead

黄色いレンガの道をたどって - Follow The Yellow Brick Road

オズの魔法使いに会いに行こう - You're Off To See The Wizard

もしも知恵があったなら(案山子) - If I Only Had A Brain

もしもハートがあったなら(ブリキ男) - If I Only Had A Heart

もしも勇気があったなら(ライオン) - If I Only Had The Nerve

これがオズの笑い方 - The Merry Old Land Of Oz

もし私が森の王だったら - If I Were King of the Forest

制作
キャスティング

ドロシー役は、当初シャーリー・テンプルの予定だった。MGM20世紀フォックスの「テンプルちゃん」を、自社の「プラチナブロンド」ジーン・ハーロウと交換して主演させようと企画していたが、ハーローが脳水腫のため26歳で死去したことから見送られた。詳細については北島明弘『クラシック名画のトリビア的楽しみ方』(近代映画社)が詳しい。そのため急遽ジュディに変更となったが、彼女は当時16歳であり「幼くみせるために胸をおさえる」「スカートを上げる」などの苦労の跡が偲ばれる。

当初、ブリキ男を演じることになっていたレイ・ボルジャーは自らの役柄に不満だったため、案山子役のバディ・イブセンと役を交替することになった。ところが撮影開始後、ブリキのメーキャップに使用されたアルミ粉が原因でバディは重篤なアレルギー症状を起こし降板。最終的にジャック・ヘイリーがブリキ男を演じることになった。すでに録音されていたサウンドトラックの関連箇所はジャックで録り直しが行われたが、ブリキ男登場後に歌われる2回の「オズの魔法使いに会いに行こう」だけはバディが歌ったものが使われている。
撮影方式

本作品はテクニカラーで、特殊プリズムで分解された3原色を3本のモノクロフィルムに別々に記録する方式で撮影された[2]画面サイズの比較。緑色の四角形がスタンダード・サイズ。赤がビスタ・サイズ、青がスコープ・サイズである。

Blu-ray版の画面比率は地上波アナログTV横縦比4:3に近いスタンダード・サイズ(横縦比が1.37:1または1.33:1)となっている。これは横長であるビスタ・サイズスコープ・サイズを地上波アナログTV放送に合わせて左右クロップ加工で横縦比4:3化したものではなく、劇場公開時のオリジナル横縦比である(ワイドスクリーンは1939年当時殆ど存在しなかった。35mmフィルムを最も効率的に使用出来る方式として一般化したスタンダード・サイズに対し、各ワイドスクリーン方式は映画業界のテレビに対する差別化・対抗策という目的が有り、本作公開後に開発された方式もある)。
評価『オズの魔法使』で主演した
ジュディ・ガーランド

当初、この映画は莫大な制作費を費やしたことに関連して、商業的には成功していないと考えられていた(通常ならヒットと呼ばれ得る興収をあげたものの、費やされた制作費を上回るには至らなかった)。ただし、評論家たちの論評はおおむね好意的であり、1939年のアカデミー賞では作品賞を含む5部門にノミネートされ、作曲賞(ハーバート・ストサート)、歌曲賞(「虹の彼方に」)、特別賞(ジュディ・ガーランド)を受賞した。なお、監督のヴィクター・フレミングは同年の作品『風と共に去りぬ』で監督賞・作品賞を受賞している。

翌年に2本のテクニカラーによるファンタジー映画『青い鳥』(MGMのライバルである20世紀FOXが制作)と『バグダッドの盗賊』(アレクサンダー・コルダ製作のユナイト映画。本作品上映の41年後、経営不振・企業売却によりMGM傘下入り)がリリースされたのは、『オズの魔法使』の公開が衝撃を与えたからだとも報道された。他、ナチス政権時のドイツにおいても、本作品に感銘を覚えたヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣(当時)がアメリカの象徴の一つともなった本作品に対抗出来る特撮ファンタジー大作として、ウーファー社に命じ『ほら男爵の冒険』が制作・公開されている。

ジュディ・ガーランドの薬物スキャンダルの最中の1954年にアメリカで行われたリバイバル上映は、歴史的な失敗に終わった。しかしテレビ放映は、特に1969年のガーランド死後の時期からは、暖かく受け入れられ、全時代を通じて最も愛される映画の一つになった。実際、テレビ・ビデオでの放映が大きく貢献して、史上最も多く鑑賞された映画になったと考えられている。

アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の選定する「歴代名画ベスト100」で第6位、同じく「歴代名ミュージカル映画ベスト100」で第3位、米・バラエティが選定する「オールタイムベスト映画100」では第2位にランクされ[3]、ガーランドが歌った主題歌「虹の彼方に」はAFI「歴代名歌曲ベスト100」の第1位を獲得した。

この映画は米国人の文化意識に多くの忘れがたい引用句を提供している。「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ(Toto, I've got a feeling we're not in Kansas anymore.)」[注 4] や、「お家が一番だわ(There's no place like home.)」などが特に知られる。
続編および再解釈詳細は「オズの魔法使いの派生作品」を参照

1950年12月25日、『ラックス・ラジオ・シアター(英語版)』において1時間のラジオドラマが放送され、ガーランドがドロシー役を再演した。1964年、NBCのウィークエンド・スペシャルとして1時間のアニメ番組『リターン・トゥ・オズ (テレビ番組)(英語版)』が放送された。1972年、映画の35周年記念として公式続編アニメ『ジャーニー・バック・トゥ・オズ(英語版)』が制作され、ガーランドの娘ライザ・ミネリがドロシー役を演じた[4]

1975年、ブロードウェイで『ザ・ウィズ』が初演された。『オズの魔法使い』のアフリカ系アメリカ人版として舞台化された。ステファニー・ミルズほかブロードウェイ俳優が出演し、トニー賞において多くの賞を受賞した。俳優のジェフリー・ホールダーが演出を担当した。この作品はその後の作品に影響を与え、1978年、ダイアナ・ロスがドロシー役、マイケル・ジャクソンがカカシ役で『ウィズ』が制作されたが、興行的には成功しなかった。

1985年、ウォルト・ディズニー・プロダクションズはファンタジー映画『オズ』を制作し、フェアルザ・バルクがドロシー役を演じた[5]。1904年の『オズの虹の国(英語版)』と1907年の『オズのオズマ姫(英語版)』をおおまかに基にし、オズシリーズに詳しくない映画評論家たちからは評判が良くなく、興行成績もふるわなかったが、ボームの世界観を忠実に表現していると認識されるようになりカルト映画として人気となった[6][7]

1995年、グレゴリー・マグワイアが小説『オズの魔女記(英語版)』を発表し、ブロードウェイ・ミュージカル『ウィキッド』として舞台化され大成功を収めている。物語はドロシーがオズに来る前のできごとや東の悪い魔女の半生を描いている。

1995年、映画56周年を記念し、1987年版舞台『オズの魔法使い』のツアー公演が開幕し、2012年まで続いた。


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