オズの魔法使い
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ドロシーは友人たちと抱き合い、友人たちは黄金の冠を使ってカカシはエメラルドの都へ、ブリキの木こりはウィンキーの国へ、ライオンは森へ、それぞれが新しい国へ行くことになり、黄金の冠は飛ぶ猿の王に与えられる。ドロシーはトトを腕に抱き、かかとを3回合わせ家へ帰ることを唱える。ドロシーは旋回して空中に浮かび、カンザスの平原の芝に転がり、自宅にたどり着く。ドロシーはエム叔母に駆け寄り「また家に帰ることができて良かった」と語る。
挿絵およびデザイン

ボームの友人でコラボレーターであるウィリアム・ウォレス・デンスロウが挿絵を担当し、著作権も共同で所有していた。多くのページに挿絵が施され、色彩豊かで当時にしてはデザインが豪華だった。1900年9月、『グランド・ラピッヅ・ヘラルド』はデンスロウの挿絵は文章ととてもよく合っていると記した。社説ではもしデンスロウの挿絵がなければ読者はドロシー、トト、他の登場人物を容易に想像することができなかっただろうと述べた[6]

この個性的な挿絵は当時模倣する者も多かった。最も有名なものは『オズ』のデザインや挿絵を模倣したエヴァ・キャサリン・ギブソンの『Zauberlinda, the Wise Witch 』(賢い魔女ゾバリンダ)である[7]。書体は当時新しかったモノタイプ・オールド・スタイルである。デンスロウの挿絵は許可を得て製作された多くのグッズで多くみられた。カカシ、ブリキの木こり、臆病なライオン、魔法使い、ドロシーはゴムや金属の人形が作られた。衣類、装飾品、ロボット、石鹸なども作られた[8]

1944年、イヴリン・コプルマンの挿絵による新版が登場した[9]。デンスロウの挿絵を基にしたこの挿絵は称賛されたが、著名な1939年の映画『オズの魔法使』により似ていた[10]
イメージおよびアイデアの元初版の、ドロシーが臆病なライオンに出会ったシーン

ボームはグリム兄弟アンデルセンから影響を受けており、ボームが編集した『アメリカン・フェアリー・テイルズ』にも彼らの作品からホラー要素を外したものがおさめられている[11]
オズ王国などの地

伝説の田舎町であるエメラルドの都として知られるオズはボームが夏季に滞在していたミシガン州ホランド近くのキャッスル・パークの城のような建物を基にしている。黄色いレンガ道は当時舗装で使用された黄色いレンガに因んでいる。これらのレンガ道はボームが通学していたピークスキル陸軍士官学校のあるニューヨーク州ピークスキルにみられた。ボーム研究者は1893年に開催されたシカゴ万国博覧会のホワイト・シティからエメラルド・シティの着想を得たと言及している。他にカリフォルニア州サンディエゴ近くのホテル・デル・コロラドからも着想を得ているとされている。ボームはこのホテルにしばしば宿泊し、オズ関連書籍をここで執筆していた[12]。1903年、『パブリッシャーズ・ウィークリー』のインタビューにて[13]、「オズ」(Oz)の名の由来は、原作者ボームが近くのファイリング・キャビネットにO-Zと記されているのを見て名づけたと語った[14]

何人かの批評家はボームはオーストラリアからも影響を受けていると語っている。オーストラリアは口語的に「Oz」に近い発音の略語で呼ばれることがある。さらに1907年の『オズのオズマ姫(Ozma of Oz)』でドロシーはヘンリー叔父とオーストラリアへ航海中嵐に巻き込まれてオズに戻る。そのためオーストラリアのようにオズはカリフォルニア州より西にあるとされている。オーストラリアのようにオズは島国である。オーストラリアのようにオズは広大な砂漠のそばにある。これらによりボームはオズはオーストラリアまたはオーストラリアの広大な砂漠の中央の魔法の国を想定しているとされる[15]
『不思議の国のアリス』

他にルイス・キャロルの1865年の『不思議の国のアリス』から影響を受けているとされる。1900年9月、『グランド・ラピッズ・ヘラルド』のレビューで、「まさに現代の『不思議の国のアリス』」と評された[6]。ボームはキャロルの物語の不整合を見つけたが、子供の読者が共感する子供の登場人物である少女アリス自身の人気を認めており、少女ドロシーが主役となる一因となった[11]。またボームはキャロルの、子供の本は多くの挿絵があれば子供も喜んで読むという信念に影響されている。キャロルは子供の本は子供が子供らしくあることではなくモラルを教えるものというヴィクトリア時代のイデオロギーを拒否していた。文章の他に多くの挿絵のあるキャロルのスタイルと共に、ボームは魔女や魔法使いのようなおとぎ話の登場人物の典型と、カカシやトウモロコシ畑など彼の読者である子供たちの身近な事象を組み合わせた[16]
アメリカン・ファンタジー・ストーリー

カンザス州やオマハなど具体的なアメリカの地名が出てくることから、『オズの魔法使い』はアメリカ初のおとぎ話とされている。ボームは、多くの挿絵のある児童文学が子供には重要であると考えるキャロルのような作家に賛同するが、農業や産業などアメリカを想起させるものを織り込むことを望んでいた[17]
ボームの人生

この作品の登場人物、ディテール、アイデアの多くはボームの経験に基づいている。子供の頃ボームはしばしば農場でカカシに追い回される悪夢を見ていた。「ボロボロの干し草でできた指」が彼の首を掴もうとしたその瞬間に崩れていった。数十年後、大人になったボームは彼の苦悩を登場人物のカカシとして物語に入れ込んだ[18]。息子のハリーによると、ブリキの木こりは窓の飾りから生まれた。彼は窓に何か魅力的なものを飾りたく、スクラップから電子部品を組み合わせて風変わりな形を作った。湯沸かし器で体を、排気管で腕や足を、フライパンで顔を作った。ボームはその後煙突の上部につけるファンネル・ハットを上部にかぶせると最終的にブリキの木こりの形になった[19]。石油王だったジョン・ロックフェラーは自身の製油所の石油を売るためスタンダード・オイルの自身の持ち株を減らし、同じ石油業界にいたボームの父のある意味「敵」だった。ボーム研究者のエヴァン・I・シュワルツは、ロックフェラーが魔法使いの一面として描かれていると語った。物語の1シーンで魔法使いが「横暴なハゲ」であるという記述がある。ロックフェラーが54歳の頃、脱毛症にかかり頭の毛が全てなくなり、人々は彼に話しかけるのを怖がっていた[20]

1880年代初頭、ボームが所有していたオペラ・ハウスが「オイル・ランプが垂木に引火して炎がゆらめき」火事で焼失したことから劇作品『Matches 』が執筆された。研究者のエヴァン・I・シュワルツはカカシの深刻な恐怖を表現する「世界で一番恐ろしいものは火のついたマッチ」という台詞に表れていると語った[21]

1890年、ボームはダコタ準州(現サウスダコタ州)のアバディーンに住んで干ばつを経験し、アバディーンの『サタデー・パイオニア』に、馬が食べている木片が芝生でできていると信じている農民が馬に緑のゴーグルをかけさせていることに関する機知にとんだコラム『Our Landlady 』を執筆した[22]。これと同様に魔法使いはエメラルドの都の住民たちに緑のゴーグルをかけさせ街がエメラルドでできていると信じさせている[23]

陶器のセールスマンでもあったボームは第20章に陶器について記載している[23]

アバディーンでの短期滞在の間、多くのアメリカ合衆国西部についての噂の広がりが続いた。しかし西部は魔法の国となる代わりに干ばつと不況で荒地となった。1891年、ボーム一家はサウスダコタからシカゴに転居した。当時シカゴは1893年に開催される万国博覧会に向けて準備中だった。研究者のローラ・バレットはシカゴはカンザスよりもオズに似ていると語った。西部の莫大な金脈についての噂が事実無根だと判明した後、ボームはオズの中にアメリカのフロンティアを作り出した。多くの敬意を表して執筆されたボームの創作は、西部が当時まだ未開拓だったことも含めて実際のフロンティアに似ていた。農民のマンチキンとドロシーは物語の始めの方で出会い、ウィンキーとは後半で出会う[24]

ボームの妻モードは姉ヘレンの娘である姪のドロシー・ルイズ・ゲイジにしばしば会いに行っていた。この幼子は難病を患い、1898年11月11日、月齢5ヶ月で脳充血により亡くなった。ボームとモードには娘がおらず、モードはドロシーを娘のように可愛がっていたためドロシーが亡くなるとモードは、薬を必要とするほど酷く落胆した[25]。妻の悲嘆を和らげるため、ボームは『オズの魔法使い』主人公の少女にドロシーと名付けた[26]。ヘンリー叔父はモードの父であるヘンリー・ゲージをモデルにした。花屋を操業していたヘンリーは、モードの母でヘンリーにとっての恐妻マチルダ・ジョスリン・ゲージに頭が上がらなかったが、近所の住民たちからは尊敬されていた。父ヘンリーと同様にヘンリー叔父は「厳格で真面目で無口」であり「従順でよく働く男」として描かれている[27]。物語中の魔女たちはマチルダが行っていた魔女狩り研究の影響を受けている。


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