ノルウェーのサガによると、ハーラル3世によりオスロが設立されたのは1049年のことである。しかし近年の考古学調査によれば、キリスト教の葬式が1000年よりも前に行われていたことが分かった。このことから、2000年にはオスロ千年祭が行われた。当時のオスロの町はビョルヴィカの入り江の東にあるガムレビエン地区に建っていた。
オスロが公式に首都となったのはホーコン5世の時代(1299年 - 1319年)である。彼は最初にオスロに常住した王でもあり、アーケシュフース城の建設を指揮した。後にノルウェーはデンマークから内政干渉を受けるようになり、同君連合において王宮はコペンハーゲンに置かれ、オスロは州都に降格、デンマーク本土に比べて都市の成長が停滞する。これはノルウェー全体に対しても同じことがいえる。オスロ大学が1811年まで建設されなかったことを見ても、それは明らかである。
オスロは何度か大災害に見舞われている。1624年の大火は被害が大きかったが、クリスチャン4世による復興で、市街地はかつての場所から現在の場所に移転し、碁盤目状の街路が作られた。この際に街はクリスチャニア(Christiania)に改称され、文化と貿易の中心として発展を遂げた。1624年以降に構築された都市はその直角、直交する道路などからKvadraturenと呼ばれることがある。1814年にデンマークとの連合が解消され、スウェーデンとの同君連合下での自治を獲得すると、クリスチャニアは再び名実ともに首都となった。宮殿、議事堂、オスロ大学、国立劇場やオスロ証券取引所などの有名な建物はこの時代に建築された。この時代にオスロに在住していた文化人には、ヘンリック・イプセンやクヌート・ハムスンなどがいる。
1842年、クリスチャニア県としてアーケシュフース県より独立した[3]。1850年にはベルゲンを抜き、一番人口の多い都市に成長した。ノルウェーの完全独立後の1925年1月1日、オスロの名に復した。この際県名も同じくオスロ県に変更された[3]。
1940年4月9日、ナチス・ドイツはノルウェーに侵攻を開始(ノルウェーの戦い)。同日、国王ホーコン7世とノルウェー政府はオスロを無抵抗で放棄、ハーマル市を仮首都と定めて移動を開始した[4]。
政治詳細は「:no:Politikk i Oslo」を参照
オスロは市(基礎自治体)であると同時に、県(fylke)でもある。オスロ市は議院内閣制を参考とした行政システムが導入されている[5][6]。
オスロ市長はオスロの代表者で、市議会議長を兼任する[5][6]。2023年現在のオスロ市長(Ordforer)はアンネ・ランボー
(英語版)(保守党)[7]。市長は市議会が任命する[8]。「オスロ市長」も参照立法府はオスロ市議会(ノルウェー語版)(Oslo bystyre)で、選挙によって選出された59人の議員から成る。市議会は予算の策定、市の方針やサービスの決定を行う[5][6][8]。
行政府は行政部局(Byradet)と呼ばれ、市の行政を主導する。市議会に法案を提出し、市議会で決定された事項を実行する責任を負っている。