オインゴ・ボインゴ
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同年、バンドは「デモEP」として知られる自費によるプロモEPレコードを、契約の締結を支援するためにラジオ局やレコード業界のA&R担当者に配布した。翌年にこのEP(『Oingo Boingo』)の改訂版をリリースすることとなるI.R.S.レコードの注目を集めたため、この努力は報われた。

バンドはこのとき、リードボーカルリズムギターのダニー・エルフマン。リードギターのスティーヴ・バーテック。キーボードのリチャード・ギブス。ベースのケリー・ハッチ。ドラムのジョニー・“ヴァトス”・ヘルナンデス。そして、ホーンセクションのレオン・シュナイダーマン(サックス)、サム・“スラッゴ”・フィップス(リードサックス)、デイル・ターナー(トランペット)の8人編成となっていた。

このグループの初の成功は、1980年にEP『Only a Lad』(下記のフルアルバムとは別)の表題曲「Only a Lad」で齎される。この曲はロサンゼルスでラジオ局KROQ-FMにより頻繁に放送され、当時のこの局では珍しいニュー・ウェイヴの穴を埋める形となっていた。

「Only a Lad」の地域的な成功に続き、1981年に最初のフル・アルバム『オンリー・ア・ラッド』 (Only a Lad) (EP及び収録曲の1曲と同じタイトル。表題曲は新しく録音された)。1982年に『オインゴ・ボインゴの謎』 (Nothing to Fear)、1983年に『Good for Your Soul』のアルバムをリリース。バンドのサウンドはニュー・ウェーヴに分類されたが、エキゾチックなパーカッション、スリーピースのホーンセクション、型破りなスケールとハーモニー、そしてシュールなイメージは、ジャンルを揺るがす組み合わせだった。

また、庄野真代の1982年のアルバム『逢・愛・哀』の編曲およびバックバンドとして参加している。

1984年、ベーシストのケリー・ハッチとキーボーディストのリチャード・ギブスが短命で終わるバンド「Zuma II」を結成するために脱退し、オインゴ・ボインゴは一時的な休止状態になったが、当時は公となっていなかった。エルフマンは後に、2人の離脱メンバーが「気力を失った」こと、「気力を失ったことをもって、私は誰も責めることはできなかった。当時、非商業的な音楽を8ピースのアンサンブルで行うことは非常に困難だった」ことを語る。
MCA期(1984年 - 1992年)

ダニー・エルフマンは1984年の休止期間を、スティーヴ・バーテックと共同制作したソロ・アルバムをリリースする機会として利用し、オインゴ・ボインゴの残りのメンバーはセッション・ミュージシャンとして再び戻ってきた。この録音は1984年に『So-Lo』としてリリースされる。A&Mの会長に会い、レーベルからのリリースを交渉し、 MCAレコードへ移籍。

『So-Lo』をリリースして間もなく、オインゴ・ボインゴは新しいベーシストのジョン・アヴィラとキーボーディストのマイク・バシックとを入れ活動を再開。新しいメンバーでの最初のリリースは、1985年の『Dead Man’s Party』だった。このアルバムは、よりポップ志向の作詞作曲と制作スタイルへの顕著な変化を示し、最も商業的に成功したレコードとなる。(原題が)同名のジョン・ヒューズの映画『ときめきサイエンス』のために書かれた「Weird Science」で彼らの最高のチャート記録となった。

バンドの曲は1980年代初頭から中期にかけて多くの映画サウンドトラックに採用され、1986年の映画『バック・トゥ・スクール』では「Dead Man’s Party」がヒットシングルとなった。また、1984年の映画『独身SaYoNaRa! バチェラー・パーティ』のサウンドトラックには、エルフマンが書いた主題歌と、これまでオインゴ・ボインゴでは未発表だった曲「Something Isn’t Right」が含まれていた。

この時代に、ダニー・エルフマンは、1985年の『ピーウィーの大冒険』に始まり、メジャーな映画音楽の作曲も始めた。エルフマンは、ティム・バートンのほとんどすべての映画に劇伴を書き続けた。オインゴ・ボインゴのギタリスト、スティーブ・バーテックは、エルフマンの映画・テレビの劇伴のほとんどのオーケストレーションを担当した。

アルバム『オインゴ・ボインゴ』 (Boi-Ngo) は1987年にリリースされた。その録音に続いて、バシックは新しいキーボーディストのカール・グレイブスに取って代わられた。バンドの1988年のリリースである『Boingo Alive』は、以前のアルバムの曲のスタジオライブでの再録音と、新曲「Winning Side」で構成される。この新曲もシングルとしてリリースされ、USモダンロックのラジオ局で14位のヒットとなる。

1990年、バンドは7枚目のスタジオアルバム『Dark at the End of the Tunnel』をリリース。以前のアルバムよりもメロウな曲をフィーチャーし、シングル「Out of Control」と「Flesh ’N Blood」も含まれる。
末期(1993年 - 1995年)

オインゴ・ボインゴは定期的にライブを続け、特にアーバインメドウズとユニバーサル・アンフィシアターで毎年恒例のハロウィーンコンサートを開催。エルフマンが映画音楽の制作に忙しかった1992年の一時休止の後、バンドは1993年にこれまでとますます異なるハードロック的音楽性で復帰し、「Insanity」、「Helpless」、未発表曲「Did It There」などの新曲をリリース。

その同じ年、オインゴ・ボインゴは新しいレーベル、ジャイアント・レコードの8枚目のスタジオ・アルバムのレコーディングを開始しました。エルフマンがミュージカルアニメーション『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の音楽をティム・バートンと一緒に書くことに深く関わったとき、セッションは行き詰まる[15] [16]。エルフマンはこの期間、バンドへの情熱を失い始めたと15年以上後になって振り返って語った[17]

1994年、バンドは新しい音楽性に変わり、その名前をボインゴに短縮。ギタリストのウォーレン・フィッツジェラルドが加わり、代わりにキーボーディストのカール・グレイヴスとホーンセクションのトリオは脱退した。バンドがホーンセクションなしでツアーした唯一の年だった[18] [19]

以前に制作が止まっていたアルバムは、オーケストラの楽器とバンドの歴史の中で初めてスタジオで即興で作られたいくつかの曲を含む新しい5ピースのラインナップで完成[20]。これは1994年に『Boingo』としてリリースされ、バンドの最後のスタジオ・アルバムとなる。

1995年に、ボインゴが結成から17年で解散することが発表された。バンドは1995年にフェアウェル・ツアーに乗り出し、元のホーンセクショントリオを復帰させ、バンド名をオインゴ・ボインゴに戻し、ユニバーサル・アンフィシアターでの最後のハロウィンのライブで活動を終える。その様子はライブ・アルバムとDVDとして撮影され、リリースされた。
その後

バンドの解散後、ダニー・エルフマンは映画音楽の作曲を続け、4つのアカデミー賞にノミネートされた。バンド解散前の1985年の『ピーウィーの大冒険』以来ほぼ独占的にティム・バートンの映画音楽を提供してきたが、エルフマンは他の監督からも非常に人気がある。作品は他に、『バットマン』、『シザーハンズ』、『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』、『メン・イン・ブラック』、『スパイダーマン』、『ビッグ・フィッシュ』、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』などの映画音楽がある。


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