オイルショック
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1960年代から70年代初頭にかけて長距離カーフェリー長距離バスが急速に発展したが、オイルショック後の燃料費高騰が影響して、路線廃止が相次いだ(東名急行バスなど)。

節電の取り組み

通商産業省では行政指導などにより節電を呼びかけたが自主的な協力が進まなかったため、強制力を持つ電気使用制限等規則により以下のような制限をかけた[8]

デパートエスカレーター運転中止。

ネオンサインの早期消灯。

ガソリンスタンド日曜日休業。

飲食店映画館の営業時間短縮や深夜営業の中止。

デパートスーパーマーケット地下街など商業施設の営業時間短縮。

鉄道事業者における最終列車の繰り上げなどの処置。

地下鉄事業者がの照明を間引き。

プロ野球においても、照明の消費電力をセーブするために平日のナイターを19時前後開始から18時前後(遅くとも18時30分までに)開始に繰り上げてみたり、また週末・祝日は極力薄暮を含めたデーゲーム(夏季除く)で開催するようにしていた。

トヨタ自動車日産自動車マツダなど主要自動車メーカーが、一斉にモータースポーツから撤退した。

テレビ深夜放送の休止。特にNHK教育総合両方ともに23時以降の放送を休止と日中(総合ではUHFテレビ試験放送を含め月曜日から金曜日の15時-16時台前半。なお、国会中継高校野球中継が行われた場合は休止時間帯でも放送されていた。教育では14時30分-17時30分の内1-3時間)の放送休止。なお、民放5社が深夜放送の自粛を決定したのは、1973年(昭和48年)12月14日。また、サンテレビジョン岐阜放送テレビなど独立UHF放送局の一部では、放送開始時刻の大幅な繰り下げ措置や日中の放送休止時間(千葉テレビ放送奈良テレビ放送など)がとられた。

産業全体

競争力を失った「構造不況業種」を縮小させ、成長分野に資源を振り向ける「積極的調整政策」。素材産業の不振、加工組立産業の成長。

雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)

優良企業の
銀行離れが進む。間接金融から直接金融(株式社債の発行など)、内部留保依存へ。

重厚長大型産業主体から軽薄短小型産業主体への移行。

その他

当時制作中(放映は、1974年4月から)だった『
ウルトラマンレオ』も、石油危機による物価高騰などが制作体制を直撃し、番組は制作費の緊縮を余儀なくされる。ギャラの節約を狙ったレギュラーキャスト削減や、毎回の怪獣着ぐるみの製造費・防衛チーム基地のセット維持費などのカット[注 2] が断行され、番組は大幅な路線変更を強いられた。

石油危機期間中は、イスラエル支持国に対する経済制裁の影響も見られた。例として選抜高等学校野球大会では、表彰式の演奏曲「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲)の使用をやめ(全国高等学校野球選手権大会では引き続き使用)、大会オリジナルの「栄光」(永野慶作作曲)が採用された。「見よ、勇者は帰る」はアラブと敵対するユダヤ戦士を称える曲であったため、経済制裁を受ける恐れから、第46回選抜高等学校野球大会より採用された。石油危機鎮静化後は元に戻す予定だったものの、急ごしらえながら高い評価を得たため、それ以降も継続して使用されている。

日本の国産旅客機YS-11の生産中止は石油危機の影響だと一部で語られることがある。確かにYS-11の生産中止の時期は第1次石油危機に近い(1973年3月生産終了)が、1971年(昭和46年)の通商産業省航空機工業審議会答申による既定事項なので誤り(正確には約20機分の追加生産用の資材調達が中止になった)。

新しい資源供給地として日本でもアフリカが注目されたが、その後のアフリカ動乱の時代で一時的なものに終わる[9]

石油危機は、日本人全体へエネルギーのみならず食料などの資源を海外からの輸入に依存することへの不信感を植え付け、特に食料自給率向上へと傾斜させる契機の一つとなったという指摘がある[10]

第2次

1979年1月にイラン革命が発生[11]イランでの石油生産が中断したため石油需給は逼迫した。さらにOPECが1月、4月、7月に段階的に原油価格を引き上げたことで、世界経済に影響を及ぼすこととなった[11](1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計 14.5 %値上げする」ことを決定していたが、4段階目の値上げは総会で合意が形成できず、実際には3段階までであった)。

1980-1981年に、OECD加盟国も非産油途上国もユーロ・シンジケートローンによる借入額を倍化させた[2]。前者は411.6億ドルから973.7億ドルとなり、後者は281.6億ドルから409.3億ドルとなった(世界借入高は799.2から1459.1)[2]

しかし、第1次オイルショックによる減量経営や省エネルギー対策などの浸透により経済に対する影響は第1次石油危機ほど酷いものにはならなかった[11](深夜のテレビ番組放送の自粛や、第1次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが1983年まで行われた)。

小宮隆太郎は、第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省して、いち早く強い金融引き締めスタンスを採用した事にあり、それに応じて労働組合・企業も賃上げなどのコストプッシュの要因を抑えるべく、労使協調路線を採用した事で事態を乗り切ったためとしている[3]。経済学者の伊藤修は「日銀の早急な金融引き締め、労使の賃上げ抑制、省資源・省エネルギーの進行、円高による輸入価格の抑制などが原因で、景気の落ち込みは軽微で済んだ」と指摘している[12]

値上げも第1次のときほど長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。日本では第1次オイルショックによる不景気から立ち直る矢先の出来事だったが、円安による輸出増加もあり一部の構造不況業種を除いて比較的早期に危機を切り抜けた[11]

一方で米国のインフレの亢進と長期金利の高騰にともなう金融市場の混乱が深刻さを増しており、石油危機を端緒とした世界同時不況は米国経済の復調をまつ1983年ころまで長引いた。
影響

先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明らかとなった。そのため、第四次中東戦争により、原油の輸出が停滞すると、国内では電力不足になり、電力を節約するため、大都市の街灯ネオンサイン東京タワーの消灯、エスカレーターエレベーターの休止、高速道路の低速運転、冷暖房の温度調節、テレビの深夜放送の中止などが実施された。そのため、北海油田などが積極的に開発運営された。また、原子力風力太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなり「省エネ」が流行語になった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道を始めとする公共交通機関を再評価する動き(モーダルシフト)が出た。

大和総研は「2度にわたるオイルショックは、日本経済に大きな影響を与えたが、日本企業がエネルギー効率を改善させる大きなきっかけとなった」と指摘している[13]。合理化は資本の自由化に並行した。


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