エーリヒ・レーダー
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ビスマルク級戦艦(42,000t)2隻が着工済み。シャルンホルスト級戦艦(35,000t)2隻が建造済み[1]

装甲艦15隻 - 新型装甲艦(20,000t)12隻。ドイッチュラント級装甲艦 (10,000t) 3隻が建造済み[1]

航空母艦4隻 - グラーフ・ツェッペリン (20,000t) のみ着工済み[1]

重巡洋艦5隻 - アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦 (10,000t) 5隻が全て着工済み[1]

軽巡洋艦20隻 - M級軽巡洋艦 (8,000t) 14隻未成。エムデン級軽巡洋艦 (6,000t) 1隻、K級軽巡洋艦 (7,200t) 3隻、ライプツィヒ級軽巡洋艦 (8,000t) 2隻の計6隻が建造済み[1]

偵察巡洋艦6隻 - 5,000t級[1]

駆逐艦及び水雷艇148隻

Uボート249隻

しかし、計画はUボートによる通商破壊を重視し、決戦型艦隊の不要を唱える潜水艦隊司令官カール・デーニッツらの批判にさらされた。実際、当時の海軍予算から見てもZ計画は無理のあるものであったが、開戦が数年先と予測されていたことあり、計画はひとまず進められた。しかし、翌1939年のポーランド侵攻の開始によってZ計画は中絶されることとなった。ドイツ海軍は連合軍に対して海上戦力で劣勢のまま開戦を迎え、潜水艦による通商破壊戦を主軸に据えることとなった。

1939年4月1日、レーダーは海軍元帥に昇進した。これはドイツ海軍最高の階級であり、ナチス時代にはレーダーとデーニッツが任じられたのみである。
第二次世界大戦ヒトラー(右)により海軍総監に任命されるレーダー(1943年)

1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発。レーダーは引き続き海軍総司令官として戦争指導に当たることとなった。ポーランド侵攻では海軍の出番は限定的であったが、翌1940年4月の北欧侵攻では重要な役割を担うこととなった。海軍は陸軍部隊をノルウェーへ輸送し、上陸とそれに続く内陸部侵攻を海上より支援して、作戦の成功に貢献した。しかし、イギリス海軍の攻撃により、ドイツ艦隊は多大な損害を被ることとなった。

1940年5月、ドイツはフランス侵攻を開始し、6月までにフランス全域を制圧下に置いた。これによってヨーロッパにおけるドイツの主敵はイギリスのみとなった。ドイツはイギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」を計画した。実行された場合、レーダーはアシカ作戦中の上陸部隊や輸送部隊を守りきらなければならないが、圧倒的な力を誇るイギリス海軍を前に彼は守りきる自信がなかった[2]。しかし、作戦の前提となる制空権の獲得は、バトル・オブ・ブリテンの敗北により失われ、またノルウェー侵攻で受けた海軍の損害も回復されず、アシカ作戦は実行することが出来なかった。

開戦以降のドイツ海軍の戦略は、通商破壊と現存艦隊主義を主軸に置いていた。大西洋でのUボートの活躍はイギリスの消耗を誘い、北海におけるティルピッツを中心とした艦隊の存在は、連合軍による対ソ援助船団の航行を困難なものとした。しかしながら、ドイツ海軍全体の劣勢は疑いようもなく、積極攻勢を仕掛けることは出来なかった。1942年になると、連合軍の対潜戦術も向上し、通商破壊も効果をあげることが出来なくなった。戦果の上げられない海軍(特に水上艦隊)に対して、ヒトラーは不満を抱くようになった。1942年12月31日、対ソ援助船団を攻撃するレーゲンボーゲン作戦の失敗は、ヒトラーの海軍への不信を決定的なものとした。ヒトラーはレーダーを呼び出し、役立たずの海上部隊を解体せよと命じた。この命令に絶望したレーダーは1943年1月30日に海軍総司令官を辞任(英語版)した。辞任にあたってレーダーは後任としてロルフ・カールス上級大将を推薦したが、ヒトラーの意向で後任の総司令官にはデーニッツが選ばれた。レーダーは海軍監察総監と内閣枢密院顧問官という一種の名誉職に任じられ、終戦まで同職を務めた。
戦後ニュルンベルク裁判の様子。前列左からゲーリングヘスリッベントロップカイテル。後列左からデーニッツ、レーダー、シーラッハザウケル

ドイツ降伏(英語版)後の1945年6月23日、レーダーは主要な戦犯の1人としてリヒテンベルクソ連軍によって逮捕された。その後、モスクワ郊外にある収容施設に移送されたが、1945年10月20日にナチ戦犯を裁くニュルンベルク裁判の被告となったため、ニュルンベルクに拘置された。

裁判では、
侵略戦争などの共謀への参加

侵略戦争などの計画及び実行

戦争犯罪

非人道的犯罪

の4項目ごとに起訴が行われることとなっていた。レーダーは第4項を除く全てで起訴された。1946年10月、すべての項目で有罪とされ、終身刑が宣告された。70歳という高齢を理由に減刑を求めたが、これは却下された。レーダーはシュパンダウ刑務所に収監された。因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、レーダーの知能指数は134で、フランツ・フォン・パーペンと並んで全被告人中第5位の知能の高さであった[注 1][3]

1955年9月26日、健康悪化を理由に釈放された。キールに居を構えたレーダーは、回想録『我が生涯 (Mein Leben) 』を書き上げた。1960年11月6日、西ドイツ国内のキールにある病院にて84歳で死去。葬儀はドイツ連邦海軍の主催で執り行われ、弔辞はデーニッツが読み上げた。遺体はキールのノルトフリートホーフ(de:Nordfriedhof (Kiel))へ埋葬された。
栄典
外国勲章

1937年11月8日 - 勲一等旭日大綬章[4]

1942年9月26日 - 勲一等旭日桐花大綬章[5]

著作

Der Krieg zur See (「巡洋艦作戦」
[6])1914 - 1918、1922年出版 - 日本未訳
1921年に政治的な事件で左遷された時期に執筆した。各種巡洋艦を世界各地に分遣して海上交通に補給を頼る島国の英国の補給路を遮断して、英国の戦争継続能力を奪う戦略論。のちのナチス・ドイツ海軍の艦隊再編計画や初期のレーダーによる通商破壊作戦の基礎的な戦略構想の原型があらわされている。

Mein Leben、1956年出版 ? 『余の生涯(レーダー提督の回顧録)』、海上自衛隊幹部学校(訳)、1975年

脚注
注釈^ ただ、レーダーは高齢であることを考慮されて、実際の素点の知能指数より15から20多く出されており、これを考慮するとパーペンが単独5位となる。

出典^ a b c d e f #独海軍入門 p.52-56


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