エーリッヒ・ホーネッカー
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1974年に彼はこのことについて「銃器を効率良く使った同志は賞賛されるべきである」[6] と述べている。

同年憲法を改正し、第1条で「東ドイツは労働者と農民の社会主義国家である」と規定し、「労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と、党の指導性を明記した。また、第6条では、東ドイツは「ソ連と絶えず分かちがたく結びついている」として、条文からはドイツという文字が消え、ソ連との繋がりを強調した。

経済政策では「新経済システム」で企業の独自採算制を認めるなどして生産性を高め、経済を発展させた[7]前任のウルブリヒトとは異なり、産業の国有化や中央集権化を進めた。ホーネッカーは1973年5月、SED中央委員会の会議において「現実社会主義」という言葉を用いて自身の政治概念を説明している。彼は東ドイツの党員や市民たちがよりよい未来を渇望するのではなくて、むしろ今を生きる世代が必要とする希望と需要に可能な限り向き合うべきであるとした。

しかし1970年代後半以降に西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、統制経済官僚主義のもとで硬直化した東ドイツの経済状況は悪化し[8]、生活水準を維持するために西独から数十億ドイツマルクの経済支援を仰ぐようになった。にもかかわらず、ホーネッカーは1981年に西ドイツ首相ヘルムート・シュミットをフベルトゥスシュトック狩猟邸(ドイツ語版)に招待した際に、東ドイツについて「経済的に世界水準に達し、世界で最も重要な産業国のひとつになった」と述べた。当時の様子を振り返ってシュミットは、ホーネッカーを「頭が良くない」(Mann von beschrankter Urteilskraft)と思ったと述べている[9]。同年には訪日し[10]日本大学から名誉博士号を受ける。日本の目覚ましい経済成長に強い関心があったようである。

こうした経済問題にもかかわらず、ホーネッカーは1980年代に国際的な評価を求め、1987年9月7日には西独を訪問し、首相ヘルムート・コールボンで会談した[11]。西独周遊期間にはデュッセルドルフヴッパータールエンゲルスの出身地)、エッセントリーアマルクスの出身地)、バイエルンにも訪問。9月10日に自身の生誕地ザールラントに訪問した際には、いつかは国境がドイツ人を切り裂くことはなくなるだろうということを感情的に演説している[4]。なお、この周遊は、1983年に企画されたが、当時は東西間の関係に疑念を抱いていたソ連の指導部から妨害されており、ゴルバチョフ政権になってから実現したものである。翌1988年にはフランスを訪問し、更に訪米も希望していたが、果たされることはなかった。

1981年2月、ホーネッカーは「二つのドイツ問題」に関して、「社会主義はいつの日にか西側のドアを叩くことになる」と発言し、あくまで東ドイツの優位を主張した。この頃にはSEDの党員数は230万人を数えるようになり、ホーネッカーの権力基盤も盤石であるかのように思われる一方、政治局会議はルーティン化して久しかった。1983年にはホーネッカーの子飼いで後に「プリンス」と揶揄される程の側近であったエゴン・クレンツが、1984年にはSED機関紙『ノイエス・ドイチュラント』編集長で後に東ベルリン党第一書記となるギュンター・シャボフスキーら4人が加わったが、SED最高指導部の人事と同じく、政府首脳人事も代わり映えしなかった。

1980年代後半にソ連でミハイル・ゴルバチョフ書記長が政治改革(ペレストロイカ)を始めた時も、強硬路線のマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩さなかった。他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味するため、東欧に押し寄せた改革の波に抗い続けていたのである。しかも、その「変革」の波はそれまでホーネッカーらSEDが散々スローガンとして主張してきた「ソ連に学ぶことは、勝利を学ぶことを意味する」という、正にそのソ連からやってきたのである。

国内ではシュタージによる束縛をひたすら行うばかりであり、反体制派は教会などの少数のコミュニティに追い立てられるのみであった。

1988年、ホーネッカーは「東ドイツカラーの社会主義」なるものを打ち出すようになり、事実上ゴルバチョフと対立。同年11月には体制引き締めを図る観点からペレストロイカの情報を伝えるソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消し、実質的な発禁処分[12]とした。これに関して、ホーネッカーらは発禁処分に至った理由を独ソ友好関係の強化に貢献するどころか、歴史を歪曲するものと説明していた[13]が、発禁された雑誌「スプートニク」の10月号では1939年8月の独ソ不可侵条約の締結時に交わした秘密付属議定書(ロシア語版)の内容に触れ、当時のナチス・ドイツとソ連との間で「利益領域の分割」を規定したことに言及したものであったため、東ドイツ国内の知識人からの反発を招いたほか、政権内でもこの措置に賛成する者は少数にとどまり、「ヒトラー・ファシズムに対する反ファシストの英雄的闘争を中傷するもの」という説明に、古参党員が党幹部に憤慨を募らせるなど[14]、かえって事態を悪化させた。ホーネッカー自身は、「ソ連共産党とソビエト連邦の歴史を、ブルジョア的な観点から書き換えたいと思っているような、暴れだした馬鹿なプチブルの叫びに心を動かされないよう」にと、第7回中央委員会の直後に感情を露わにしている。

この頃、シュタージの報告は現場の悲鳴を伝えていた。


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