エーリッヒ・ホーネッカー
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9月10日に自身の生誕地ザールラントに訪問した際には、いつかは国境がドイツ人を切り裂くことはなくなるだろうということを感情的に演説している[4]。なお、この周遊は、1983年に企画されたが、当時は東西間の関係に疑念を抱いていたソ連の指導部から妨害されており、ゴルバチョフ政権になってから実現したものである。翌1988年にはフランスを訪問し、更に訪米も希望していたが、果たされることはなかった。

1981年2月、ホーネッカーは「二つのドイツ問題」に関して、「社会主義はいつの日にか西側のドアを叩くことになる」と発言し、あくまで東ドイツの優位を主張した。この頃にはSEDの党員数は230万人を数えるようになり、ホーネッカーの権力基盤も盤石であるかのように思われる一方、政治局会議はルーティン化して久しかった。1983年にはホーネッカーの子飼いで後に「プリンス」と揶揄される程の側近であったエゴン・クレンツが、1984年にはSED機関紙『ノイエス・ドイチュラント』編集長で後に東ベルリン党第一書記となるギュンター・シャボフスキーら4人が加わったが、SED最高指導部の人事と同じく、政府首脳人事も代わり映えしなかった。

1980年代後半にソ連でミハイル・ゴルバチョフ書記長が政治改革(ペレストロイカ)を始めた時も、強硬路線のマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩さなかった。他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味するため、東欧に押し寄せた改革の波に抗い続けていたのである。しかも、その「変革」の波はそれまでホーネッカーらSEDが散々スローガンとして主張してきた「ソ連に学ぶことは、勝利を学ぶことを意味する」という、正にそのソ連からやってきたのである。

国内ではシュタージによる束縛をひたすら行うばかりであり、反体制派は教会などの少数のコミュニティに追い立てられるのみであった。

1988年、ホーネッカーは「東ドイツカラーの社会主義」なるものを打ち出すようになり、事実上ゴルバチョフと対立。同年11月には体制引き締めを図る観点からペレストロイカの情報を伝えるソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消し、実質的な発禁処分[12]とした。これに関して、ホーネッカーらは発禁処分に至った理由を独ソ友好関係の強化に貢献するどころか、歴史を歪曲するものと説明していた[13]が、発禁された雑誌「スプートニク」の10月号では1939年8月の独ソ不可侵条約の締結時に交わした秘密付属議定書(ロシア語版)の内容に触れ、当時のナチス・ドイツとソ連との間で「利益領域の分割」を規定したことに言及したものであったため、東ドイツ国内の知識人からの反発を招いたほか、政権内でもこの措置に賛成する者は少数にとどまり、「ヒトラー・ファシズムに対する反ファシストの英雄的闘争を中傷するもの」という説明に、古参党員が党幹部に憤慨を募らせるなど[14]、かえって事態を悪化させた。ホーネッカー自身は、「ソ連共産党とソビエト連邦の歴史を、ブルジョア的な観点から書き換えたいと思っているような、暴れだした馬鹿なプチブルの叫びに心を動かされないよう」にと、第7回中央委員会の直後に感情を露わにしている。

この頃、シュタージの報告は現場の悲鳴を伝えていた。各企業や地域から上がってくる報告では、もはや計画経済の実施は保証できないと言った声や、党指導部は本当の状況を知っているのかという質問まで飛び交っている。SED指導部は、シュタージ以外のルートからもこの情報を普通に目にすることができた。SEDの中には経済状況に危機意識を持つ党員もおり、ゴルバチョフに呼応して改革の導入を訴える者もいた。しかし、改革が社会主義体制を変質させ、これまでの権力基盤を掘り崩すことになると考える者も多く、党内は割れ始めていた。
失脚東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣共和国宮殿で行われた建国40周年記念晩餐会で、東側諸国の首脳らを前に挨拶をするホーネッカー。これが彼にとって最後の晴れ舞台となった(1989年10月7日)政治局員の行動を求めるデモエゴン・クレンツ崩壊したベルリンの壁(1989年11月9日)

1989年、自由選挙によるポーランド統一労働者党の潰滅を嚆矢として東欧革命が始まったことにより、東欧革命の波涛は東ドイツにも及ぶこととなり、これより民衆の抗議活動に歯止めが利かなくなっていった。5月2日、既に改革を進めていたハンガリーネーメト政権は、自国内に亡命・滞留していた東ドイツ国民を西側へ逃すべくゴルバチョフの内諾を得た上で、「財政上の理由」を口実にオーストリアとの国境線に張り巡らされていた鉄条網の撤去を開始した。翌5月3日、SEDの政治局会議でホーネッカーは「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴った。ホーネッカーはそれが何を意味するか分かっていたからである。東ドイツ政府は直ちにハンガリーに抗議し、東ドイツ国民の強制送還を要求するが、元より実効性は無かった。それどころか、国境開放を知った東ドイツ国民の大量出国の波が止まらなくなる。「鉄のカーテン」はこうして綻び始めたのである。

このような状況の中、5月7日に地方議会選挙(ドイツ語版)が実施された。当時の社会状況からしてSEDがそれまでと同じ高投票率、高支持率を得られないことは明白であり、実際少なくない有権者が反対票を投じた。選挙管理委員会は公式の集計結果を従来通り、およそ99%の投票率で反対票はごく僅かであったと発表する。しかしながら、実態と明らかに隔離しており選挙を監視していた反体制派は不正選挙だと断じ、選挙結果の改ざんを問題視する請願をホーネッカーに向けて提出するためのデモを行うも、SEDはこれを力ずくで抑え込んだ。

6月4日中国で発生した天安門事件に対してホーネッカーらSED幹部が支持を表明したことも国民の強い反発を招いていた。


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