ホーネッカーの後任のクレンツは緩やかな改革を行う一方でSEDの一党独裁制を維持しようとしたが、国内は日に日に拡大する反政府デモなどで混乱していった[29]。
混乱の最中の11月9日、「ベルリンの壁は私の認識では直ちに開放されます」とシャボフスキーが誤発表(本当は「旅券発行の大幅な規制緩和」について11月10日に発表される予定であった)し、これが嚆矢となってベルリンの壁は破壊された。
結局クレンツも国民の支持どころか党員の支持を得ることも出来ず[30]、1989年12月3日にはホーネッカーを初めとする旧中央委員会の全員がSEDを除名された。SEDは支配権を奪われ東ドイツは崩壊の道を歩むことになり、これにより東西ドイツ統一へと向かう。 1990年から1993年まで、ホーネッカーは冷戦犯罪、特にベルリンの壁を越えようとして死んだ192人に関しての訴追を回避した。ホーネッカーは1991年にモスクワへ発つ前にベルリン近くのソ連の陸軍病院に入院した。 しかし亡命先のソ連で保護が受けられないと悟ると、モスクワのチリ共和国大使館に逃げこんだ。チリは第二次世界大戦前後からドイツ系移民が多かったうえに、かつて東独はチリのピノチェト軍事政権から逃げた左派系の人々の亡命を受け入れた(第34・36代チリ大統領、UNウィメン代表を歴任したミシェル・バチェレもその一人)ため、ピノチェト政権の崩壊により、保護が期待出来た。他にも北朝鮮とシリアがホーネッカーの受け入れを申し出たといわれる。かつて多くの東ドイツ市民が西側への亡命を求めて各国の大使館に逃げ込んだのと好一対であった。 結局、ソ連崩壊後の1992年にドイツへ移送されたが、1993年の裁判では訴追免除され、娘ゾーニャの居るチリの首都であるサンティアゴへ事実上亡命した。 翌年の1994年5月29日に、肝臓癌により81歳で没した。 ナチス・ドイツ時代、ドイツ共産党員として投獄され8年間の獄中闘争を行い、ナチスドイツに屈しなかった闘士との評価がある。 一方、ベルリンの壁を越えようとした人々を射殺するよう命じたり、ソ連のペレストロイカが始まって以降も民衆の抗議行動を弾圧するなど、負の面の評価が多く存在する。
末路
評価
共産党国家では、ルーマニア社会主義共和国のニコラエ・チャウシェスクと並び旧体制を象徴する存在で、もし健康を害していなければ当然法廷で責任を追及されたと見られている。その訴追裁判中止が決定されたとき、旧東ドイツ地域では抗議のデモが相次いだ。
ホーネッカーについて、ポーランド人民共和国末期の指導者だったヴォイチェフ・ヤルゼルスキは、「彼は東ドイツを冷酷非情に支配した。彼は独断家だった。だが私は、この男にダイナミックな側面をあるのを看て取っていた」、「ある日、政治的会合の後で、彼は私に特注の酸素マシーンをくれた。彼のお抱え科学者が作ったもので、皮膚の再生を促し、健康を増進するという。眉唾だとは思ったが、一応自宅に持ち帰った。だが、実際に使ってみると、これが効果がある。ホーネッカーは、ちょうどこのマシーンのような男だ―最初は彼のことを眉唾だと思うかも知れないが、実際に試してみると、期待を裏切ることはない」と一定の評価を与えている[33]。 1947年にFDJの活動家で年上のエディット・バウマン
ホーネッカーの公用車、プジョー・604
ホーネッカーの公用車、シトロエン・CXリムジン
家族