エーリッヒ・ホーネッカー
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しかし、ハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からはホーネッカー批判や辞任を暗に求める発言が出るなど、全くの逆効果に終わった[21]。これに勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはソ連の指導部やシュトフ首相などとも連絡を取ってホーネッカーを引き降ろす工作を進めて行った[22]

この時期になると月曜デモの参加者は7万人以上に膨れ上がり、「私たちはここに残る!(?Wir bleiben hier!“)」「我々が人民だ(ドイツ語版)(?Wir sind das Volk“)」という声になっていた。また、人民警察によるデモ参加者への暴行の様子が西側のメディアを通じて東西両ドイツのテレビで公然と放送されるようになり、東ドイツの騒然とした社会情勢が多くの両ドイツ国民に知られるようになっていた。ホーネッカーは天安門事件を真似て、ドイツ駐留ソ連軍の力を借り軍事力でこれを鎮圧しようとした。既にホーネッカー失脚を画策し始めていた治安担当書記のエゴン・クレンツはこれに反対しており、駐東独ソ連大使ヴャチェスラフ・コチュマソフも強く反対したためにドイツ駐留ソ連軍は全く動こうとせず、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長のクルト・マズアが対話を呼びかけると、地元のSED幹部もこれに賛同したため[23][24][25]にこれを断念せざるを得なかった。10月16日には、デモ参加者は12万人という規模にまで発展し、ホーネッカーは改めて武力鎮圧を主張したが、国家人民軍参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将に、「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と反対され[26]、軍にも反目された格好となった。

10月17日、政治局会議でいつものように議事を進行し始めようとしたホーネッカーに対し、突如シュトフが「エーリッヒ、ちょっと発言が」と言うと、続いて「ホーネッカー同志の書記長解任、およびミッタークヘルマン同志の解職を提案したい」と述べた。これに対し、解職対象のミッターク、ヘルマンを含めたホーネッカー以外の全政治局員が賛成を表明し、次々にホーネッカーを批判し始めた。ホーネッカーはそれに対しても顔色一つ変えなかったが、国家保安相エーリッヒ・ミールケが「暴露してもいいんだが…」とホーネッカーの不正を示唆する発言をすると「じゃあ、言ってみろ!」と叫んだという[27]

ホーネッカーは観念したように解任動議を採決にかけざるを得なかった。ホーネッカーは自らへの更迭動議に賛成し、結果として全会一致で解任が決定された。後任にはクレンツが就任した。翌10月18日の党中央委員会でホーネッカーは「健康上の問題」を理由に退任したが、その際の演説でも「私は生涯を労働者階級の革命的事業とドイツの地に社会主義を打ち立てるというマルクス・レーニン主義的世界観に捧げて来た」「社会主義ドイツ民主共和国の建設と発展は、わが党及び私自身の共産主義者としての闘いの総仕上げであった」と述べ、最後まで頑迷なマルクス・レーニン主義者としての姿勢を崩すことはなかった[28]。奇しくも、かつてウルブリヒトがソ連指導部の手により引導を渡された時と同様にウルブリヒトから権力を奪取したホーネッカー自身もまたソ連指導部の手により引導を渡される構図が再現される形となったのである。かつてと異なったのは社会の不安定が最高潮に達しているということであった。

ホーネッカーの後任のクレンツは緩やかな改革を行う一方でSEDの一党独裁制を維持しようとしたが、国内は日に日に拡大する反政府デモなどで混乱していった[29]

混乱の最中の11月9日、「ベルリンの壁は私の認識では直ちに開放されます」とシャボフスキーが誤発表(本当は「旅券発行の大幅な規制緩和」について11月10日に発表される予定であった)し、これが嚆矢となってベルリンの壁は破壊された

結局クレンツも国民の支持どころか党員の支持を得ることも出来ず[30]1989年12月3日にはホーネッカーを初めとする旧中央委員会の全員がSEDを除名された。SEDは支配権を奪われ東ドイツは崩壊の道を歩むことになり、これにより東西ドイツ統一へと向かう。
末路

1990年から1993年まで、ホーネッカーは冷戦犯罪、特にベルリンの壁を越えようとして死んだ192人に関しての訴追を回避した。ホーネッカーは1991年にモスクワへ発つ前にベルリン近くのソ連の陸軍病院に入院した。

しかし亡命先のソ連で保護が受けられないと悟ると、モスクワのチリ共和国大使館に逃げこんだ。チリは第二次世界大戦前後からドイツ系移民が多かったうえに、かつて東独はチリのピノチェト軍事政権から逃げた左派系の人々の亡命を受け入れた(第34・36代チリ大統領UNウィメン代表を歴任したミシェル・バチェレもその一人)ため、ピノチェト政権の崩壊により、保護が期待出来た。他にも北朝鮮シリアがホーネッカーの受け入れを申し出たといわれる。かつて多くの東ドイツ市民が西側への亡命を求めて各国の大使館に逃げ込んだのと好一対であった。

結局、ソ連崩壊後の1992年にドイツへ移送されたが、1993年の裁判では訴追免除され、娘ゾーニャの居るチリの首都であるサンティアゴへ事実上亡命した。

翌年の1994年5月29日に、肝臓癌により81歳で没した。
評価

ナチス・ドイツ時代、ドイツ共産党員として投獄され8年間の獄中闘争を行い、ナチスドイツに屈しなかった闘士との評価がある。


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