この頃、シュタージの報告は現場の悲鳴を伝えていた。各企業や地域から上がってくる報告では、もはや計画経済の実施は保証できないと言った声や、党指導部は本当の状況を知っているのかという質問まで飛び交っている。SED指導部は、シュタージ以外のルートからもこの情報を普通に目にすることができた。SEDの中には経済状況に危機意識を持つ党員もおり、ゴルバチョフに呼応して改革の導入を訴える者もいた。しかし、改革が社会主義体制を変質させ、これまでの権力基盤を掘り崩すことになると考える者も多く、党内は割れ始めていた。
失脚東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣共和国宮殿で行われた建国40周年記念晩餐会で、東側諸国の首脳らを前に挨拶をするホーネッカー。これが彼にとって最後の晴れ舞台となった(1989年10月7日)政治局員の行動を求めるデモエゴン・クレンツ崩壊したベルリンの壁(1989年11月9日)
1989年、自由選挙によるポーランド統一労働者党の潰滅を嚆矢として東欧革命が始まったことにより、東欧革命の波涛は東ドイツにも及ぶこととなり、これより民衆の抗議活動に歯止めが利かなくなっていった。5月2日、既に改革を進めていたハンガリーのネーメト政権は、自国内に亡命・滞留していた東ドイツ国民を西側へ逃すべくゴルバチョフの内諾を得た上で、「財政上の理由」を口実にオーストリアとの国境線に張り巡らされていた鉄条網の撤去を開始した。翌5月3日、SEDの政治局会議でホーネッカーは「このハンガリーの連中は、一体何をたくらんでいるんだ!」と怒鳴った。ホーネッカーはそれが何を意味するか分かっていたからである。東ドイツ政府は直ちにハンガリーに抗議し、東ドイツ国民の強制送還を要求するが、元より実効性は無かった。それどころか、国境開放を知った東ドイツ国民の大量出国の波が止まらなくなる。「鉄のカーテン」はこうして綻び始めたのである。
このような状況の中、5月7日に地方議会選挙(ドイツ語版)が実施された。当時の社会状況からしてSEDがそれまでと同じ高投票率、高支持率を得られないことは明白であり、実際少なくない有権者が反対票を投じた。選挙管理委員会は公式の集計結果を従来通り、およそ99%の投票率で反対票はごく僅かであったと発表する。しかしながら、実態と明らかに隔離しており選挙を監視していた反体制派は不正選挙だと断じ、選挙結果の改ざんを問題視する請願をホーネッカーに向けて提出するためのデモを行うも、SEDはこれを力ずくで抑え込んだ。
6月4日、中国で発生した天安門事件に対してホーネッカーらSED幹部が支持を表明したことも国民の強い反発を招いていた。夏の休暇シーズンになると多くの東ドイツ国民が休暇を利用してハンガリーやチェコスロバキアへ出国した。
胆嚢炎の治療の為、政務を離れていたホーネッカーは8月に一時復帰したが、事態を憂慮するエゴン・クレンツ(治安・青年問題担当書記、政治局員、国家評議会副議長)の進言にも「それがどうした」と言うだけで意に介さず、進言したクレンツに対しては長期休暇を命じて政権中枢部から遠ざけた[15]。その直後の8月19日、ハンガリーの民主化勢力はハンガリー社会主義労働者党改革派やオットー・フォン・ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子)と共同で汎ヨーロッパ・ピクニックを開催し、自国内の東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させることに成功した。その数は15万人に達したとされる。ワルシャワやプラハの西ドイツ大使館にも逃亡を望む東ドイツ国民が押し寄せる事態となる。
ホーネッカーが病気療養中で手をこまねいている間にも国民の大量出国は続き、ライプツィヒでは民主化を求めるデモ(月曜デモ)が行われるようになった[16]。9月に入っても状況は好転せず、9月11日、ハンガリーは東ドイツ政府の猛抗議を押し切ってオーストリアとの国境を全面開放した。同月末までに3万4000人の東ドイツ国民が西側へ去っていった。
10月3日、政務に復帰したホーネッカーは出国を防ぐため、東ドイツとチェコスロバキアとの国境を封鎖する。ホーネッカーは、出国を望む人々に対して「彼らにはいかなる涙も流しはしない」という言葉を投げつけた。
10月7日、建国40周年記念式典のために東ドイツを訪問したゴルバチョフとの会談では、国内は何の問題もないと楽観視するホーネッカーの態度にゴルバチョフが業を煮やし、改革か引退かを迫った[17]。その後行われたゴルバチョフとSED幹部達との会合でもゴルバチョフが「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた[18] のに対し、ホーネッカーは、自国の発展をまくしたてるのみであった。