エーリッヒ・ホーネッカー
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ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長(在任:1971年 - 1989年)。

1971年に前任のヴァルター・ウルブリヒトを事実上失脚させて権力を掌握したが、産業の国有化などの中央集権化を図って東ドイツ経済を硬直化・悪化させて財政破綻の危機を招いた。東ドイツの旧体制を象徴する人物であり、1989年の東欧革命で失脚した。
経歴
青年期

炭坑夫の父の6人兄弟の3番目の息子としてノインキルヒェンに生まれる。10歳で地元の共産党少年団に加入し、続いて1926年にはドイツ共産党(KPD)青年部(Jugendverband)に参加。16歳で地元部長に就任し、17歳でドイツ共産党に正式入党していた。

学校卒業後に徒弟修業先(マイスター)が見つからなかったため、2年ほどポンメルンで農家の手伝いをし、その後は屋根職人の伯父を手伝っていたが、1929年国際レーニン学校に入学するためモスクワに行った。1931年に帰国、地元共産党の指導に従事する。

1933年、ドイツではナチスが政権を掌握したが、当時のザール地方は国際連盟(実質的にフランス領、ザール (国際連盟管理地域)を参照)の管理下にあったため共産党は活動できた。1935年に住民投票でザール地方のドイツ帰属が決まると、ホーネッカーは他の党員と共にフランスに亡命したが、後に地下活動のため潜入したベルリンゲシュタポに逮捕された。1937年には共産党活動で10年の懲役が宣告され、第二次世界大戦の終了間際まで拘束された。

ドイツの敗北直前の1945年5月6日に、屋外作業のため外出した隙をついて脱走した。後にソ連軍によって直接監獄から解放されたと宣伝されたが、これはソビエト連邦(以下ソ連)との友好のアピールを目的とした「歴史の修正」であったと考えられている。
社会主義統一党SEDの党大会で演説するホーネッカー(1958年)
後方の人物がウルブリヒト

戦後ホーネッカーは、猜疑心の強いヴァルター・ウルブリヒトによる党査問会を経て、その下で活動を始めた。1946年には旧KPDと東ドイツのドイツ社会民主党員によって組織されたドイツ社会主義統一党(Sozialistische Einheitspartei Deutschlands, SED)の創立メンバーとなった。同年ホーネッカーはFDJ(自由ドイツ青年団)の創設者の一人となり、長らくその会長を務め、のちに小学校低学年からなる党の組織である「ピオネール」の子供たちからは「エーリッヒおじさん」として親しまれるようになる。

1946年10月の選挙で大勝し、ホーネッカーは短命な議会でSEDのリーダーシップを獲得した。そして、ドイツ民主共和国は社会主義国家として1949年10月7日に成立した。そこでホーネッカーは1950年から中央委員会書記局の局員候補、1958年からは正式局員になった。研修のためモスクワに滞在していた1956年には、ニキータ・フルシチョフによる「スターリン批判」を直接経験することになった。

ホーネッカーは中央委員会の国防担当委員として1961年ベルリンの壁の建設を担当した。ソ連指導者のブレジネフと良好な関係を保ち、ウルブリヒトが1960年代以降導入した「新経済システム」を修正主義として批判し、ブレジネフの支援下で党内に反対の声を広げていった。
最高指導者SEDの党大会でのミハイル・ゴルバチョフ (左)と(1986年西ドイツの首都ボンを訪問したホーネッカーと西ドイツ首相ヘルムート・コール(1987年)

1971年1月、ホーネッカー以下13名の政治局員とその候補が連名でウルブリヒトの解任をソ連のブレジネフに要請した。ウルブリヒトはソ連指導部の圧力もあり、その後5月、表向きには「老齢と健康上の理由」で辞任しホーネッカーは代わって第一書記(後に書記長に改称)に就任し、東ドイツの新たな指導者となると同時に国防評議会議長(ドイツ語版)に就任した。

1973年8月のウルブリヒト(第一書記辞任後も、国家元首である国家評議会議長の職には残っていた)の死後、暫くの間は、SED最高指導者(つまり実質的な東ドイツの最高指導者)のホーネッカー、首相にあたる閣僚評議会議長ホルスト・ジンダーマン、元首である国家評議会議長ヴィリー・シュトフに権限が分かれた「トロイカ体制」的な体制が採られたが、1976年10月になると人民議会によってホーネッカーが国家評議会議長にも選出され、名実ともに東ドイツの最高権力者となり、権力を一身に集めることになる。なお、ホーネッカーの前任者であったシュトフは閣僚評議会議長に格下げされ、閣僚評議会議長だったジンダーマンは、儀礼的な役職の人民議会議長へ格下げされた。一方、ホーネッカーはウルブリヒトの名を冠した街路や工場、公共施設などを改名し、公式の歴史叙述からもウルブリヒトの存在を葬り去った[2]

ホーネッカーは中央委員会経済担当書記にギュンター・ミッタークを任命し、秘密警察国家保安省(シュタージ)大臣にはエーリッヒ・ミールケを任命した。この三頭体制は、誰にも邪魔されることなく、東ドイツの支配階級、つまり約520人の党・国家幹部のエリートたちのトップとなった[3]

また、ホーネッカーは中央委員会アジテーション・プロパガンダ部門書記官であったヨアヒム・ヘルマンと日常的に党のメディア活動に関する協議を行い、党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」のレイアウトや、国営テレビの報道番組「アクトゥエレ・カメラ」のニュース構成までをも決めていた[4]。ホーネッカーは、シュタージにも重要な意義を認め、週に一度はミールケと長い議論を行っていた[5]

ホーネッカーは就任当初、デタントの波に乗って西ドイツ相互承認条約を結んで国交を樹立し、さらに国際連合加盟を実現する外交的成功を収めた。内政でも当初は文化政策を中心に開放を目指し、改革派と見られた時期もあった。しかし次第にその体制は硬直化してシュタージによる反体制派の取り締まりが激化していった。ホーネッカーは東西国境の対人地雷を拡充し、国境の逃亡者には容赦のない射殺を命令した[6]1974年に彼はこのことについて「銃器を効率良く使った同志は賞賛されるべきである」[6] と述べている。

同年憲法を改正し、第1条で「東ドイツは労働者と農民の社会主義国家である」と規定し、「労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と、党の指導性を明記した。また、第6条では、東ドイツは「ソ連と絶えず分かちがたく結びついている」として、条文からはドイツという文字が消え、ソ連との繋がりを強調した。

経済政策では「新経済システム」で企業の独自採算制を認めるなどして生産性を高め、経済を発展させた[7]前任のウルブリヒトとは異なり、産業の国有化や中央集権化を進めた。ホーネッカーは1973年5月、SED中央委員会の会議において「現実社会主義」という言葉を用いて自身の政治概念を説明している。彼は東ドイツの党員や市民たちがよりよい未来を渇望するのではなくて、むしろ今を生きる世代が必要とする希望と需要に可能な限り向き合うべきであるとした。


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