エーリッヒ・ホーネッカー
[Wikipedia|▼Menu]
最高指導者SEDの党大会でのミハイル・ゴルバチョフ (左)と(1986年西ドイツの首都ボンを訪問したホーネッカーと西ドイツ首相ヘルムート・コール(1987年)

1971年1月、ホーネッカー以下13名の政治局員とその候補が連名でウルブリヒトの解任をソ連のブレジネフに要請した。ウルブリヒトはソ連指導部の圧力もあり、その後5月、表向きには「老齢と健康上の理由」で辞任しホーネッカーは代わって第一書記(後に書記長に改称)に就任し、東ドイツの新たな指導者となると同時に国防評議会議長(ドイツ語版)に就任した。

1973年8月のウルブリヒト(第一書記辞任後も、国家元首である国家評議会議長の職には残っていた)の死後、暫くの間は、SED最高指導者(つまり実質的な東ドイツの最高指導者)のホーネッカー、首相にあたる閣僚評議会議長ホルスト・ジンダーマン、元首である国家評議会議長ヴィリー・シュトフに権限が分かれた「トロイカ体制」的な体制が採られたが、1976年10月になると人民議会によってホーネッカーが国家評議会議長にも選出され、名実ともに東ドイツの最高権力者となり、権力を一身に集めることになる。なお、ホーネッカーの前任者であったシュトフは閣僚評議会議長に格下げされ、閣僚評議会議長だったジンダーマンは、儀礼的な役職の人民議会議長へ格下げされた。一方、ホーネッカーはウルブリヒトの名を冠した街路や工場、公共施設などを改名し、公式の歴史叙述からもウルブリヒトの存在を葬り去った[2]

ホーネッカーは中央委員会経済担当書記にギュンター・ミッタークを任命し、秘密警察国家保安省(シュタージ)大臣にはエーリッヒ・ミールケを任命した。この三頭体制は、誰にも邪魔されることなく、東ドイツの支配階級、つまり約520人の党・国家幹部のエリートたちのトップとなった[3]

また、ホーネッカーは中央委員会アジテーション・プロパガンダ部門書記官であったヨアヒム・ヘルマンと日常的に党のメディア活動に関する協議を行い、党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」のレイアウトや、国営テレビの報道番組「アクトゥエレ・カメラ」のニュース構成までをも決めていた[4]。ホーネッカーは、シュタージにも重要な意義を認め、週に一度はミールケと長い議論を行っていた[5]

ホーネッカーは就任当初、デタントの波に乗って西ドイツ相互承認条約を結んで国交を樹立し、さらに国際連合加盟を実現する外交的成功を収めた。内政でも当初は文化政策を中心に開放を目指し、改革派と見られた時期もあった。しかし次第にその体制は硬直化してシュタージによる反体制派の取り締まりが激化していった。ホーネッカーは東西国境の対人地雷を拡充し、国境の逃亡者には容赦のない射殺を命令した[6]1974年に彼はこのことについて「銃器を効率良く使った同志は賞賛されるべきである」[6] と述べている。

同年憲法を改正し、第1条で「東ドイツは労働者と農民の社会主義国家である」と規定し、「労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と、党の指導性を明記した。また、第6条では、東ドイツは「ソ連と絶えず分かちがたく結びついている」として、条文からはドイツという文字が消え、ソ連との繋がりを強調した。

経済政策では「新経済システム」で企業の独自採算制を認めるなどして生産性を高め、経済を発展させた[7]前任のウルブリヒトとは異なり、産業の国有化や中央集権化を進めた。ホーネッカーは1973年5月、SED中央委員会の会議において「現実社会主義」という言葉を用いて自身の政治概念を説明している。彼は東ドイツの党員や市民たちがよりよい未来を渇望するのではなくて、むしろ今を生きる世代が必要とする希望と需要に可能な限り向き合うべきであるとした。

しかし1970年代後半以降に西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、統制経済官僚主義のもとで硬直化した東ドイツの経済状況は悪化し[8]、生活水準を維持するために西独から数十億ドイツマルクの経済支援を仰ぐようになった。にもかかわらず、ホーネッカーは1981年に西ドイツ首相ヘルムート・シュミットをフベルトゥスシュトック狩猟邸(ドイツ語版)に招待した際に、東ドイツについて「経済的に世界水準に達し、世界で最も重要な産業国のひとつになった」と述べた。当時の様子を振り返ってシュミットは、ホーネッカーを「頭が良くない」(Mann von beschrankter Urteilskraft)と思ったと述べている[9]。同年には訪日し[10]日本大学から名誉博士号を受ける。日本の目覚ましい経済成長に強い関心があったようである。

こうした経済問題にもかかわらず、ホーネッカーは1980年代に国際的な評価を求め、1987年9月7日には西独を訪問し、首相ヘルムート・コールボンで会談した[11]。西独周遊期間にはデュッセルドルフヴッパータールエンゲルスの出身地)、エッセントリーアマルクスの出身地)、バイエルンにも訪問。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:80 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef