戦後の1946年にアルバニア人民共和国の建国を宣言、最高指導者となった。ホッジャは正統派マルクス・レーニン主義を宣言し、ヨシフ・スターリンを崇拝した。ソ連寄りの政策を取り、スターリニズムに基づく社会主義国家建設を目指した。1948年にはソ連と対立してチトー主義を掲げたユーゴスラビアとの国交を断絶した。また1949年、ホッジャはユーゴスラビアとの関係を支持したコチ・ヅォヅェ
(英語版)国防大臣への処刑を行った。1954年首相職をメフメット・シェフーに譲るが、引き続き労働党第一書記として権力を揮った。スターリンの死後、ソ連の最高指導者となったニキータ・フルシチョフによって「スターリン批判」が行われるとソ連との外交関係を絶ち、プラハの春におけるソ連の軍事介入を批判して1968年に軍事同盟のワルシャワ条約機構を脱退した。ソ連と国交断絶したアルバニアとホッジャは、中華人民共和国に接近した。アルバニア人民軍は人民服風の軍装を着て56式自動歩槍(とそのコピーのASh-78)と59式戦車や戦闘機のJ-6など大量の中国製武器で武装して東西冷戦時代のヨーロッパでも異様な軍隊となっていた[1]。1967年には中国の文化大革命にも影響されて「世界初の無神国家」としてあくまで宗教と信仰をめぐる一立場にすぎない無神論を国家(政府)の原則とし[2]、全ての宗教を完全に否定かつ禁止して全国の教会とモスクを閉鎖させ、あらゆる信仰の表明は、公的にであれ私的にであれ、違法となった。一方で、農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成した[3]。1971年には国際連合でアルバニア決議を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、ホッジャは翌1972年のニクソン大統領の中国訪問には批判的であり、リチャード・ニクソンを「熱烈な反共主義者」と嫌った[4]。1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、中国がフランコ体制下のスペインやチリのアウグスト・ピノチェト政権など反共的な国々と国交樹立したこと[5]や中国の3つの世界論は「第三世界の超大国」[4][6]になることを目論んでいるとホッジャは批判しはじめ、華国鋒・ケ小平時代となると中国からの援助は途絶えた(中ア対立)。