エロ劇画誌
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「エロ実話誌」の誕生(1960年代)

1950年代より以前、週刊誌を発行できる体力があるのは新聞社だけだと考えられていたが、新潮社が1956年に創刊した『週刊新潮』は大成功を収め、出版社にも週刊誌が発行できると証明された。これをみた出版社が1950年代後半から1960年代にかけて次々と週刊誌を創刊し、週刊誌ブームとなった。

新潮社とは比較にならない中小出版社が出した週刊誌というと、大概は戦後のカストリ雑誌の流れを汲む「実話」読み物的なものが主体で、「実話」と言っても全部でたらめのエロ雑誌である(いわゆる「実話誌」)。しかし、これまでのカストリ雑誌のエロ本が月刊総合誌のフォーマットを取っていたのに対し、週刊誌ブーム以降のエロ本は週刊誌のフォーマットを取るようになったのが画期であった。編集方針も週刊誌のそれに準じたものになる。

1960年代半ばにはオフセット印刷の普及に伴い、中身にエログラビア写真が増加[3]。過当競争に伴い、表紙は次第に過激化した。

このような実話誌には、でたらめの実話記事に混じっていくつか艶笑的な大人漫画が掲載されていた。いわゆる「お色気漫画」で、そのほとんどは単なる紙面の穴埋めのゴミみたいな漫画であったが、劇画ブームを経た1970年代に入ると劇画や劇画調イラストも増え始める。実話誌の低俗記事をそのまま劇画にしたような作品が主だった。時代は青年劇画誌ブームなので、実話誌からの派生として、そのような劇画だけを集めた雑誌も多数創刊されたが、ゴミみたいな劇画を集めて雑誌にしても、一流青年劇画誌のように読者のハートをつかむことはできず、ほとんどは1年もたずにすぐに廃刊になった。そんなゴミみたいな雑誌の一つが、KKベストセラーズから1973年3月に創刊された『漫画ベストセラー』であった。『漫画ベストセラー』は売れ行き不振に伴い、1974年3月より『漫画エロトピア』へと改題リニューアルし、エロ劇画誌の歴史がここから始まる。
「お色気漫画」の衰退と「エロ劇画」の隆盛(1960年代末-1970年代初頭)

「お色気漫画」(「ピンク漫画」「艶笑漫画」とも)とは、「おとな漫画」のサブジャンルの一つで、小島功富永一朗などが代表的なクリエーターである。1950年代後半の最大手「官能娯楽誌」である『アサヒ芸能』に連載された、小島功『仙人部落』(1956年-)などは、そのエロさから1963年には日本初の深夜アニメ化もされる大ヒット作となったが、画風はやはり「大人漫画」だった。当時の「大人漫画」の代表的クリエーターである横山泰三は、カストリ雑誌『ホープ』(実業之日本社)1950年8月号に掲載された、皇居前広場でアオカンに興じる人々の姿を描いた『噂の皇居前広場』(1950年)が「わいせつ画」として戦後漫画史上初の発禁を食らっているが、画風はやはり「大人漫画」であり、アレをリアルに描いたハードなものではなかった。1960年代までは、このような漫画が、分別のあるいい大人が読む一般的な「エロ漫画」とされていた。

しかし1960年代後半に「劇画ブーム」が起き、「劇画」が「おとな漫画」と「こども漫画」の間を埋める形で、境目が曖昧になりつつあった。当時の「劇画」の読者であった「青年」層は大人になっても「大人漫画」なんか読まず、普通にそのまま「劇画」を読んでいた。なんせ「劇画」はリアルでエロかった。

官能性の強い劇画を、読み手あるいは描き手として支持したのは、当時の「青年」で、読者層は特に高校生と浪人生が多かったという[4](なお、ここで言う「青年」とは一般名詞ではなく、戦後漫画史における「用語」である。平成時代以降は一般的に『ヤングマガジン』あたりを「青年誌」と呼んでいるのでややこしくなっているが、1970年代から1980年代までは、おとな漫画の延長として創刊された「大人漫画誌」と、貸本劇画の延長として創刊された「青年誌」と、こども漫画の延長として創刊された「ヤング誌」の区分が自明のものとして存在する。2020年代の現在、「青年誌」の代表である『ビッグコミック』の読者層が60代を超えているように、時代が下るごとに「青年」の指す年齢はそのまま持ち上がるので注意)。1970年ごろまで漫画界の頂点にいた漫画家の職能集団「漫画集団」の幹部として、当時最も権威のある漫画賞だった文藝春秋漫画賞の選考委員を務めていた横山泰三は、1970年度の文春漫画賞の選者講評において、「今はエロ、劇画の全盛で、絵もろくに描けないやからが、最低の漫画ブームをつくっている。それが若いやつに人気があるというのだから、わしのようなロオトルはもうだまっているしかない」と激怒した。ちなみに横山は、いずれ「本物の漫画」「一枚ものの高級漫画」の復権が来ると語ったが、結局「大人漫画」というジャンルは「劇画ブーム」に押される形で、この新興のムーブメントに「大人向け漫画」としての地位を譲り、読み手・描き手の寿命とともにそのまま衰退して消滅した。
オルタナ系漫画誌の影響

劇画が官能を含むようになったのは、1960年代以降、虫プロ商事発行の漫画雑誌COM』(1967年-1973年)などで、漫画が私小説的な色を帯びてきた時期に端を発するという説がある。漫画/劇画が「性」を描けるようになった。そして当時はそのような「実験的」な劇画を発表する場というと『ガロ』か『COM』くらいしかなかったのである。エロ漫画史家の米沢嘉博によると、1970年当時、(「こども漫画」の王道である)手塚治虫系の少年漫画や、(「劇画」の王道である)さいとう・たかを系の劇画による女体の表現は、あくまでストーリーを語るための記号的表現にすぎず、むしろ「エロス」を描き得たのは傍流系の漫画家であるという[5]。エロス表現に優れた傍流系(現代漫画研究においては一般に「オルタナティヴ・コミック」と称される。通称「オルタナ系」)の漫画家である宮谷一彦青柳裕介真崎守らをメジャー誌に吸い上げる形で、青年劇画誌のエロス表現は発展していく。特に『COM』でデビューした後に『ヤングコミック』に吸い上げられた宮谷一彦の作品などは、代表作の『肉弾時代』(1976年より『ヤングコミック』誌に連載)から取って「肉弾劇画」と呼ばれるほど、非常に肉感的であった。のちにエロ劇画全盛期を代表するエロ劇画家となる榊まさるは、当時は宮谷一彦のアシスタントをしており、また中島史雄ふくしま政美は『COM』誌の読者投稿コーナーを担当していた「峠あかね」(真崎守の筆名)のアシスタントをしていたなど、エロ劇画黎明期には1960年代末のオルタナ系漫画雑誌の影響が陰に陽に存在する。

『ガロ』や『COM』などのメジャーなオルタナ系漫画誌に発表された、後世の漫画史家にも評価の高い作品だけでなく、劇画と実話の混在した最底辺の官能娯楽雑誌に発表された無名のゴミみたいな作品にも、それはそれで、記号的な表現に堕したメジャー誌の作品にはない「エロス」があった。

上記の「青年劇画誌」「エロ系実話誌」「大人漫画誌」の流れが合流し、エロ劇画をメインとして雑誌が作られるようになったのがエロ劇画誌の起源である[6]
「エロ劇画誌」ブーム(1970年代)
「エロ劇画誌」の乱立(1970年代中ごろ)

1973年(昭和48年)に一般劇画誌として創刊された『漫画ベストセラー』が、1974年1月3・17日合併号をもってリニューアルし、『漫画エロトピア』と改題。


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