1952年に音楽家ジョルジュ・カレール(フランス語版)とピアニスト・教育者のポール・カレール=ダンコース(フランス語版)の息子で保険業を営んでいたルイ・エドゥアール・カレールと結婚し、エマニュエル(1957年生)、ナタリー(1960年生)、マリナ(1962年生)の3子をもうけた[9][10]。エマニュエル・カレールはフェミナ賞受賞作家[9][11]、ナタリー・カレールは弁護士、著述家、マリナ・カレール・ダンコース(フランス語版)は超音波検査専門の医師で、フランス5の健康情報番組を担当するなどジャーナリストとしても活躍している[12][13][14]。
エレーヌ・カレール=ダンコースの父ジョルジュ・ズラビシュヴィリは、第二次大戦中に2年間、ボルドーのドイツ軍経済局で通訳をしていたが、1944年のパリ解放後に行方不明になった。エレーヌが15歳、ニコラが8歳のときであった。エレーヌ・カレール=ダンコースはこれについて口を閉ざしていたが、息子のエマニュエル・カレールが叔父ニコラから聞いた話に基づく小説『ロシア小説(Un roman russe)』(フランス語版)を発表し、祖父ジョルジュは何者かに連れ去られ、消息を絶った、「死体は見つかっていないし、死亡通知もなかったので、墓石もない」と書いた[4]。ドイツ軍の通訳をしていたことを明かしたのも本書においてであり、対独協力者として殺害されたとみられている[5][15]。エマニュエル・カレールは、「沈黙や否認は、彼女(母)にとって文字通り生死にかかわることだった」と語っている[15]。 ソルボンヌ大学に学び、歴史学の博士号、次いで文学と人文科学の博士号を取得。さらにパリ政治学院で学位を取得した[16][17]。
経歴
1987年6月22日にジャック・シラク首相(当時)が、フランス国籍法典改正のための有識者委員会を設置した際には、委員として参加。これは、カレール=ダンコース、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリを含む法学、政治学、歴史学、社会学の大学教員9人、医師2人、官僚3人、弁護士1人、映画監督1人(アンリ・ヴェルヌイユ)によって構成され、移民問題との関連で特にフランスが採用している国籍の出生地主義の是非について審議することを目的とした委員会であり[18][19][20]、法学者のジャン=ドニ・ブルダン(フランス語版)と哲学者のアラン・フィンケルクロートは参加を拒否した[19]。カレール=ダンコースとウラジーミル・プーチン大統領(2000年)
1990年12月13日にアカデミー・フランセーズ会員(第14座席、ジャン・ミストレル(フランス語版)の後任)に選出され、1991年11月28日に就任。1999年10月21日から終身事務局長を務めている[3]。
1992年、欧州中央銀行の顧問として旧共産主義国家の民主化のための支援政策の策定に参加[3]。
1994年にジャック・シラクが党首を務める共和国連合から欧州議会議員に選出され(任期:1994年7月19日 - 1999年7月19日)[21]、外交・治安・防衛政策委員会の副委員長を務めるほか、ロシア外交代表団や欧州連合・ロシア協力欧州議会委員会代表団の一員としてロシアとの協力関係の強化に尽力した[21]。
2023年8月5日、パリにて死去。没年94歳[22]。 ベルギー王立アカデミー
栄誉
アカデミー会員、名誉会員、名誉博士