エレーヌ・カレール=ダンコース
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エマニュエル・カレールフェミナ賞受賞作家[9][11]、ナタリー・カレールは弁護士著述家、マリナ・カレール・ダンコース(フランス語版)は超音波検査専門の医師で、フランス5の健康情報番組を担当するなどジャーナリストとしても活躍している[12][13][14]

エレーヌ・カレール=ダンコースの父ジョルジュ・ズラビシュヴィリは、第二次大戦中に2年間、ボルドードイツ軍経済局で通訳をしていたが、1944年のパリ解放後に行方不明になった。エレーヌが15歳、ニコラが8歳のときであった。エレーヌ・カレール=ダンコースはこれについて口を閉ざしていたが、息子のエマニュエル・カレールが叔父ニコラから聞いた話に基づく小説『ロシア小説(Un roman russe)』(フランス語版)を発表し、祖父ジョルジュは何者かに連れ去られ、消息を絶った、「死体は見つかっていないし、死亡通知もなかったので、墓石もない」と書いた[4]。ドイツ軍の通訳をしていたことを明かしたのも本書においてであり、対独協力者として殺害されたとみられている[5][15]。エマニュエル・カレールは、「沈黙や否認は、彼女(母)にとって文字通り生死にかかわることだった」と語っている[15]
経歴

ソルボンヌ大学に学び、歴史学博士号、次いで文学人文科学の博士号を取得。さらにパリ政治学院で学位を取得した[16][17]

ソルボンヌ大学、パリ政治学院、欧州大学院大学(ベルギーブルッヘ)で教鞭を執った[3][17]。スラヴ研究所(フランス語版)運営委員会の委員でもあり[17]、1984年から1987年にかけてパリ大学の公開講座用のラジオ・ソルボンヌ=ラジオ・フランスの会長を務めた[17]

1987年6月22日にジャック・シラク首相(当時)が、フランス国籍法典改正のための有識者委員会を設置した際には、委員として参加。これは、カレール=ダンコース、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリを含む法学政治学、歴史学、社会学大学教員9人、医師2人、官僚3人、弁護士1人、映画監督1人(アンリ・ヴェルヌイユ)によって構成され、移民問題との関連で特にフランスが採用している国籍出生地主義の是非について審議することを目的とした委員会であり[18][19][20]、法学者のジャン=ドニ・ブルダン(フランス語版)と哲学者のアラン・フィンケルクロートは参加を拒否した[19]カレール=ダンコースとウラジーミル・プーチン大統領(2000年)

1990年12月13日アカデミー・フランセーズ会員(第14座席、ジャン・ミストレル(フランス語版)の後任)に選出され、1991年11月28日に就任。1999年10月21日から終身事務局長を務めている[3]

1992年、欧州中央銀行顧問として旧共産主義国家の民主化のための支援政策の策定に参加[3]

1994年にジャック・シラクが党首を務める共和国連合から欧州議会議員に選出され(任期:1994年7月19日 - 1999年7月19日)[21]、外交・治安・防衛政策委員会の副委員長を務めるほか、ロシア外交代表団や欧州連合・ロシア協力欧州議会委員会代表団の一員としてロシアとの協力関係の強化に尽力した[21]

2023年8月5日、パリにて死去。没年94歳[22]
栄誉
アカデミー会員、名誉会員、名誉博士

ベルギー王立アカデミー(フランス語版)の会員[3][23]ロシア科学アカデミーの外国人会員(2003年以降)[3][17]ロシア美術アカデミー、ジョージア国立科学アカデミー(フランス語版)およびルーマニア・アカデミー(ルーマニア語版)の名誉会員を務めるほか[3]、以下の大学から名誉博士号を授与された。

ラヴァル大学カナダケベック州[24]

モントリオール大学(カナダ、ケベック州)[24]

ルーヴァン・カトリック大学(ベルギー)[24]

ブカレスト大学ルーマニア[3]

ソフィア聖クリメント・オフリドスキ大学ブルガリア[25]


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