エレフテリオス・ヴェニゼロス
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ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会、五人委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した[10][11]

1909年にギリシャ王国で軍の将校によるクーデターが起こると、クレタ島における政治手腕を買ったギリシャ政府により招かれアテネにむかった[10]。総選挙の実施を主張した彼の提案は受け入れられ、1910年8月8日と11月28日の二度に渡って総選挙が実施された。8月の選挙ではヴェニゼロスは立候補しなかったが首相に任命された。しかし、この選挙では多数派を占めることが出来なかったため、辞任、再度行われた11月の選挙には立候補し、362議席中、300議席を占めたヴェニゼロス派はヴェニゼロスを再び首相に任命した[# 4][13][14]
中央政界への進出ヴェニゼロス(1912年もしくは1913年)ドイラニ駅にて

ヴェニゼロス年表
1864年8月23日クレタ島ハニアにて生まれる
1866年(?1872年)シロス島へ移住
1883年父キリアコスが死去
1886年アテネ大学在学中にイギリス外交官ジョゼフ・チェンバレンに面会
1887年アテネ大学卒業、弁護士を開業すると共に新聞の発行を行う。
1889年クレタ議会の議員に選出される。
1896年クレタ蜂起発生、ヴェニゼロスも参加する。
1897年4月希土戦争発生。また、クレタ島でも反乱が発生し、自治権を獲得。ギリシャ王国王子ゲオルギオスが総督に任命される。ヴェニゼロスは高等弁務官の参事官に就任。
1908年10月クレタ島にて「エノシス」が宣言され、ギリシャ王の名のもとに自治を行う統治委員会による統治へと移行。
1909年ギリシャ王国において軍部クーデター発生、ヴェニゼロスがアテネに招聘される。
1910年11月28日総選挙に立候補していたヴェニゼロス当選。









辣腕を振るうヴェニゼロス

首相の座に就いたヴェニゼロスはまずコンスタンティノス皇太子を陸軍に戻し、先のクーデターで抵抗した将校らを釈放、先のクーデターとは関わりがないことを示し、1911年には憲法を修正、教育改革、土地改革のための法整備、公務員の契約は公開試験で行うことなどを決定、さらに将校の立候補の禁止、教育の義務化と無料化、そして議院における議決定足数を今までの2分の1から3分の1に変更した。さらには穏健的に社会改革を勧めたが、これは当時ギリシャで進んでいた工業化の元で増えつつあった労働者らがヴェニゼロスを強く支持する基盤となった[15]。これらの精力的な活動が行われた結果、慢性的な赤字に苦しんでいた財政も黒字に転換、これらの資金を用いた上で、ヴェニゼロスは陸海軍大臣を兼ねることで軍隊の整備をも行い、フランス陸軍イギリス海軍がこれを補佐、再軍備が進められた[16][17]

1912年3月に選挙が行われると議員定数181に対してヴェニゼロス派は146を占めたが、オスマン帝国内で発生した政情不安のためにマケドニアを巡ってセルビアブルガリアモンテネグロが暗躍、マケドニアを「回復されざる土地」としていたギリシャもこれに加わろうとしたがオスマン帝国各地に散らばって生活するギリシャ人が居たため、ヴェニゼロスは悩まされることになった。そのため、ヴェニゼロスはブルガリア、セルビアと交渉を行い、後の1913年6月にはセルビアとの間に条約が結ばれ、一方でセルビア、ブルガリアの間でも交渉が持たれた[# 5]。このためマケドニアを巡っては列強諸国が強く干渉していたが、ギリシャ、セルビア、ブルガリアはこれを無視、1912年10月18日、モンテネグロが提案していたオスマン帝国攻撃に同調し、これらバルカン連合諸国とオスマン帝国との間に第一次バルカン戦争が勃発した[19]

この戦争でブルガリアも狙っていたテッサロニキをギリシャ軍は素早く占領、またエーゲ海での戦いも有利に進めヒオス島レズヴォス島サモス島を占領、さらにはイピルスの主要都市ヨアニナの占領にも成功した。この第一次バルカン戦争はバルカン諸国の勝利に終わり、1913年5月30日に結ばれたロンドン条約においてギリシャはこれらの地域を手中に収めた[20][21][# 6]。そして次に勃発した第二次バルカン戦争でもギリシャは勝利を収め、クレタ島の統治権を手中に収めたがデデアーチ(後のアレクサンドルーポリ)と北イピルス地方北イピロス(英語版)を手に入れることはできなかった[23]

この両戦争の間、ギリシャの領土獲得は戦争以前の7割増しであり、人口も280万人から480万人となっていた[# 7]。ヴェニゼロスが発揮したリーダーシップはギリシャを地中海の重要な勢力と成しており、『メガリ・イデア』実現は決して夢物語ではないと考えられていた。しかし、第一次世界大戦前夜、国王コンスタンディノス1世との間には確執が生じつつあった[24]
エスニコス・ディハズモス(国家分裂)「エスニコス・ディハズモス」も参照コンスタンディノス1世とヴェニゼロス(1913年)

第一次世界大戦勃発時、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の妹を娶り、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国の軍事力を信じていたコンスタンディノス1世とイギリス、フランスに敬意を払っていたヴェニゼロスとの間には確執が徐々に生じていた。戦争が勃発すると、ヴェニゼロスは連合側に参加して戦うべきと考え、イギリス外相エドワード・グレイに申し出ていた[# 8]。その一方で、中央同盟側に参加したいがイギリス海軍の前にギリシャが無力であることをよく知っていたコンスタンディノス1世はあくまでも中立を維持すべきと主張していた[25][26]

1914年11月、オスマン帝国が参加するとブルガリアを参戦させたくなかったイギリスは1915年1月にカヴァラドラマセレスをブルガリアへ移譲、そのかわりに北部イピルス地方と小アジア沿岸地域の重要な地域をギリシャに移譲するという曖昧な提案を行った。ヴェニゼロスは英仏軍のテッサロニキ上陸とルーマニアの参戦とブルガリアの挟撃を連合軍に求めた上でこれに従うべきであるとしたが、国王と軍の相談役はこの約束が確実ではないということで渋っていた。そしてロシアの抗議とルーマニアが行動を起こす気がないことでヴェニゼロスは要求を取り下げたが、参戦することをあきらめることはなかった。2月にダーダネルス海峡においてガリポリの戦いが勃発するとヴェニセロスはこれに参加することを強く説いたため、コンスタンディノス1世は参加を一度は認めたが、軍参謀イオアニス・メタクサスがこれに抗議して辞任すると参加を拒否したため、国王の方針変更に直面したヴェニゼロスは1915年3月6日、首相を辞任した[27][28]


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