エル・グレコ
[Wikipedia|▼Menu]
この頃の作品として、《モデナの三連祭壇画》(エステンセ美術館(英語版)、モデナ)、《エジプトへの逃避》(プラド美術館) 、『受胎告知』(プラド美術館) などがある。

1572年7月6日、突然グレコはファルネーゼ枢機卿に突然の解雇についての釈明の要求と撤回の嘆願を請う手紙を出しており、この頃には既にグレコが解雇され、その上嘆願も届かなかったことが分かっている[13]。同年、サン・ルーカ画家組合[注釈 3]に「ピットーレ・ア・カルテpittore a carte(紙に描く画家という意味)」として登録され、加入している。当時イタリア労働組合の構成員は親方に限られていたことから、この時までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かる。これ以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されており、主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いた。当時のイタリアの絵画の主流はヴェネツィアからローマに移っていったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動し、1576年から1577年の間定住した。ローマでのグレコの主なパトロンはフルヴィオ・オルシーニ(英語版)であった[14]。この時期の作品として『神殿を浄めるキリスト』(ミネアポリス美術館)、『ロウソクに火を灯す少年』(カポディモンテ美術館) などがある。後に勉強のためイタリア各地(パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェ)を放浪し、その後にスペインへ渡ったと言われる。
スペインでの活動

グレコがスペインを目指した理由は明確ではないが、1577年の春にはマドリードにいたことが記録されている[4]。グレコが到着した時代のスペインは、レコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任により急激に力を強めていた。仕事以外ではトレドに定住するようになったが、この時期彼は作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やその顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っている。トレドにグレコが向かった理由は、当時神のごとき存在であったミケランジェロをローマで酷評したことが原因と言われる。グレコはローマにいられなくなったという伝説が残るほど辛辣な評価をミケランジェロの絵画に下した。一方でミケランジェロのデッサンに対してはグレコは絶賛している。当時スペインの芸術家たちには、視覚芸術はアカデミックな知的活動であるという認識が広がってはいなかった。そのためフェリペ2世の支援があったにもかかわらず、芸術家たちの社会状況はイタリアと比べてひどく劣ったものであった[15]。スペインでの初仕事として大聖堂から《聖衣剥奪》、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院(スペイン語版)からは3つの祭壇衝立を依頼された。《聖衣剥奪》の完成後、作品を受け入れた大聖堂は「キリストに対する冒涜」を理由に報酬を踏み倒そうとした。グレコは裁判で争うが、大聖堂はグレコを異端審問にかけると仄めかし、結局調停案(当初グレコが提示していた額の約三分の一の支払い)を受け入れた[16]。1582年には異端審問所で隠れイスラム教徒の嫌疑をかけられた、ギリシャ人少年の通訳を務めている[17]グレコによる『修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像

フェリペ2世に依頼された《聖マウリティウスの殉教》がエル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否された。これ以降グレコは次第に工房を広げ、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしつつ、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになった。この時期様々な礼拝堂の依頼を個人で、または息子と連名で契約を結んだが、それらの中には実現しなかったものもあった。1603年、グレコはイリェスカス(英語版)のカリダード施療院(スペイン語版)と祭壇衝立の制作契約を結んだ。しかし1605年8月にその評価額を巡って施療院と対立した。施療院側は祭壇衝立全体で2436ドゥカートとし、《慈愛の聖母》の画中に描かれているひだ襟を付けた肖像画を、施療院にふさわしい人物像に描き変えることを要求した。最終的に1608年に1666ドゥカートがグレコ側に払われることで決着した[18]。1612年から1614年にかけて、グレコは自身の墓碑のためにサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に《羊飼いの礼拝》を制作した[19]。本作はプラド美術館に所蔵されている[19]。1614年3月31日に遺言状を作成し、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、同年の4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けこの世を去った。その際友人で修道士、詩人でもある修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像は、以下の墓碑銘を捧げている[20][21][注釈 4]

クレタは生と、絵筆をグレコに授け、トレードはグレコの最上の祖国となり、死と共に永遠に生き始める。
"Creta le dio la vida, y los pinceles
Toledo mejor patria,
donde empieza a lograr con la muerte eternidades"

遺体はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の地下に保存されており、棺を上から教会部外者でも見ることができる[23]
作品
知的活動ロウソクに火を灯す少年》ルネサンス期の流行である古典の記述に基づいて、失われた美術品を再現したと言われる作品。本作はプリニウスの『博物誌』にある記述に基づいて描かれた[24]

グレコの功績は画家としてのものに限らず、多数の文献を所持し、所持した図書の中に多くの書き込みをした。具体例として、ジョルジュ・ヴァザーリによる第二版『美術家列伝[注釈 5]やダニエレ・バルバロの編集したウィトルウィウスの『建築十書 (De Architectura) 』[注釈 6]を所持していた[26]。知識の活用という点では、『博物誌』に基づいて《燃え木を吹く少年》に見られるエクフラシス[注釈 7]が描かれていることからも分かる[27]
家族グレコの愛人ヘロニマ・デ・ラス・クエバスと言われる肖像画(1570年代後半)。

生地カンディアでの家族で判明しているのは、官吏である父のヨルギと10歳年上であるマヌーソスという兄がいたことである[28]。グレコの家庭は正規のカトリックではなく、家族はヴェネツィアの協力者として働いていたと考えられている[4]
愛人、非嫡出子

1578年、グレコはトレドの職人家庭の出身であるヘロニマ・デ・ラス・クエバス(Jeronima de las Cuevas)という女性との間に息子を一人儲けている。この息子は前述のグレコの父と兄の名からホルヘ・マヌエル・テオトコプリと名付けられ、父と同様に画家を目指したようであるが、彼の作品は父の形式を真似たものに留まったようである[29]。また、ヘロニマとの関係そのものもうまくはいかなかったと考えられている[4]。グレコはヘロニマとは37年間トレドで同棲した。しかしホルヘ・マヌエルを愛し非嫡出子の汚名をそそごうとしたグレコであったが、ヘロニマとの結婚はなかったことから、1614年まで正妻が生きていた可能性がある。しかし、これに対して明確な答えは未だ示されていない[30]
弟子

スペインへの移動の頃からイタリア人の画家であるフランシスコ・プレボステ(Francisco Preboste)が助手としてついていた。この助手は死ぬまでグレコの助手として働き続けた[4][31]。また、ルイス・トリスタン(英語版)は弟子であり、彼の場合宗教画にボデゴンの要素を入れていた[32]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:94 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef