エル・アラメインの戦い
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自動車化され装備も優秀であり、これまでの敗戦で疲弊していた他のイギリス軍師団2個分の戦力を誇っていた[40]。オーキンレックの作戦計画ではマルサ・マトルーフ市街地の防衛を担当する予定だったが、師団長のバーナード・フレイバーグ中将が「我々をここ(マルサ・マトルーフ市街地)に置くのは、元気のいい狼を檻に閉じ込めるようなものです。我々にはもっと機動力に富む任務が与えられるべきです」と主張したため、オーキンレックが当初の作戦計画を変更し、市街地の外で機動的な防衛任務を与えられていた[41]。第2ニュージーランド師団の先陣では、マオリ族の兵士がマチェテを携えて気勢を上げており、ドイツ兵はその異様な戦いぶりに動揺して苦戦を強いられた[42]。ドイツ第21装甲師団は、稼動戦車は23輌、まともに戦える兵士が600人になるまで戦力を消耗した[43]

しかし、軍司令部がまともに機能していなかったこともあって、イギリス軍は連携を欠いていた。第1機甲師団長の「猛撃者」の異名を持つ猛将ウィリアム・ヘンリー・ゴット(英語版)中将は、第2ニュージーランド師団が苦戦しているものと誤認した。さらにドイツ第90軽アフリカ師団がマルサ・マトルーフに通じる連絡路を遮断したという報告も入ったため、タイミングを見て撤退せよというオーキンレックの命令を守って、単独で撤退を開始した。さらにこの撤退が、連絡の不手際で一緒に戦っていた第2ニュージーランド師団にもオーキンレックの司令部にも知らされなかった[44]。第1機甲師団の撤退で第2ニュージーランド師団はたちまち窮地に陥り、3方からドイツ軍に攻撃されることとなった。師団長のフレイバーグ中将が負傷したが、師団の統率が乱れることはなかった。夜間まで待って将兵全員の小銃に銃剣を付けさせると、真東に向かって一目散に脱出を開始した[45]車上から戦場を偵察する第2ニュージーランド師団長バーナード・フレイバーグ(中央)、左はクリケット選手ギフ・ビビアン(英語版)、右はオールブラックスにも所属したラグビー選手ジャック・グリフィス(英語版)

包囲していたドイツ第21装甲師団は、翌朝から第2ニュージーランド師団を殲滅するつもりで油断しており、多くのドイツ兵は軍靴や軍服を脱いで半裸で眠りこけていた。そこに、銃剣と手榴弾を手にしたニュージーランド兵が殺到した。就寝していたドイツ兵を次々と殺害し、大混乱に陥っているところを900輌の車両に分乗した第2ニュージーランド師団の主力が突破して行った[46]。激しい白兵戦の結果、ドイツ軍はほぼ一方的に殺戮され、ニュージーランド軍が去った後には300人もの死体が砂漠に横たわっていた。ニュージーランド兵の中では特にマオリ族で編成された第28大隊の蛮勇ぶりが際立っており、マオリ兵は奇声を上げながらトラックにぶら下がってマチェテを振り回し[47]、殺害されたドイツ兵はマチェテや銃剣でズタズタに切り裂かれたり、銃弾を繰り返し撃ち込まれた異様な死体となっていた[48]。虚を突かれたドイツ第21装甲師団はまともに抵抗することができず、真夜中の午前3時30分に第2ニュージーランド師団は包囲を突破した。さらに、ニュージーランド軍は白兵突撃でロンメルの司令部を脅かし、盛んに銃撃してきた。身の危険を感じたロンメルや参謀は応戦するため機関銃に飛びついたが、どうにか白兵戦には巻き込まれずに済んだ[49]。さらにはドイツ軍野戦病院にも突入し、負傷兵や軍医や衛生兵の区別なく蹂躙していったので、のちにドイツ側から戦争犯罪と批判されることになった[50]。憤慨したロンメルは、ニュージーランド兵の捕虜を砂漠に6時間も屹立させるという虐待を行った[51]。第2ニュージーランド師団の勇戦の報告を受けたチャーチルはその勇敢さを激賞し[52]、取り逃がした第2ニュージーランド師団にロンメルはこの後何度も煮え湯を飲まされることとなる[53][54]

市街地南方を固めていたイギリス第13軍団の後退で、マルサ・マトルーフ市街地を固守していたイギリス第10軍団は完全に包囲されてしまった。ここでもイギリス軍内の連携のまずさが露呈し、イギリス第10軍団の司令官ウィリアム・ホームズ中将(英語版)はイギリス第13軍の撤退を知らされていなかった[55]。エル・アラメインに続く海岸道路も既にドイツ軍に封鎖されており、市街を包囲しているドイツ軍装甲師団に加えて、イタリア軍歩兵師団も迫りつつあったため、ホームズはオーキンレックに撤退の許可を求めた。オーキンレックはマルサ・マトルーフを死守するつもりはなかったが、イギリス本国からの「エジプトを放棄するつもりなのか」という批判に忖度して、なかなかホームズに撤退命令を出さなかった。オーキンレックが「本夜、全兵力をもって脱出せよ。第13軍団が後退を援護する」という撤退許可命令をようやく出したのは、ホームズが撤退を求めてから4時間も経ってからだった[56]。機械化部隊だったイギリス第10軍団は、28日の夜間に軍用車に分乗し、ドイツ軍の包囲を突破してエル・アラメイン方面に退却することに成功した。ロンメルはマルサ・マトルーフでイギリス軍歩兵部隊主力を捕捉殲滅するチャンスは逃したが、それでも撤退が間に合わなかった7,000人を捕虜として捕らえ[57]、1個師団分の物資を鹵獲することができた。辛くも殲滅を逃れたイギリス軍の歩兵部隊はエル・アラメインまで撤退してその防備を固めた[58]
第一次エル・アラメイン会戦
カイロの混乱第二次世界大戦中のカイロ

ロンメルがマルサ・マトルーフに達したことで、カイロは大混乱に陥っていた。本来ならそういった騒ぎを鎮めるべきイギリス軍中東軍司令部やイギリス大使館は、逆に上を下への大騒ぎを演じて混乱を助長していた。イギリスの各公共機関は公的文書の焼却を始め、銀行には預金を引き出すため長蛇の列ができた。そしてカイロ在住の連合国国民の白人は、車の屋根に荷物を括り付けると、次々と市外へ逃げ出していた。その様子はまるでナチス・ドイツのフランス侵攻でのパリ陥落を彷彿とさせたが、白人たちの無様な姿を見て、これまで虐げられてきたカイロの市民は腹を抱えて笑っていた[59]。ドイツ軍に呼応してイギリスに反旗を翻す具体的な動きも始まっており、後にエジプト大統領となる青年将校アンワル・アッ=サーダートは、イギリス軍に投擲する火炎瓶を作るために1万本の空き瓶を準備していた[60]

ロンメルの勢いに、イギリス本国でもこのままエジプトを失うのではないかという懸念が広まっていた[61]。ヨーロッパではトブルク、極東ではシンガポールで惨敗したチャーチルの政治的立場はこれまででもっとも厳しいものとなっており、チャーチルの戦争指導に対しての不信任動議が議会に提出されたほどであった。動議は反対多数で否決されたものの[62]、チャーチルが軍事的に何の成功もしていないことには変わりはなく、マルサ・マトルーフからエル・アラメインに撤退したオーキンレックに対して以下の督励電文を打電した[63]。全ての陣地を勝利の陣地となし、全ての塹壕を最後の塹壕とせよ。
撤退は不要であり安全を願う祈りも不要である。
どのような代償を払おうとも、エジプトは守り抜くべきである。 ? ウィンストン・チャーチル

マルサ・マトルーフを奪取したロンメルは、イギリス軍が防備を固める前に撃破するため、休む間もなく6月29日にはエル・アラメインに向かって軍に前進を命じた。長いアフリカ装甲軍車列の前方には、イギリス軍から鹵獲したAEC装甲指揮車(ドイツ軍呼称「マンモス」)に搭乗したロンメルの姿があった。またその車列も戦車以外の輸送車の殆どがイギリス製であり、兵士が持っている小火器も食べている食料も、はたまた着ている軍服ですらイギリス軍からの鹵獲品であった。アフリカ装甲軍は戦争の初めから敵からの鹵獲品を頼りにしている寄生虫のような軍であった[64]。そもそもロンメルのドイツアフリカ軍団はヒトラーから明らかに依怙贔屓されており、同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならないほど多くのトラックなどの輸送手段を与えられ、補給も潤沢であった。にも関わらず、ロンメルはヒトラーの方針を逸脱して戦線を拡大した結果、補給路が長くなりすぎていた。物資はあっても前線まではなかなか届けることができず、また、制空権を奪いつつあったイギリス空軍の執拗な補給路への空爆で恒常的な補給不足に陥っていた[65]

ロンメルは車上から軍に向けて「アレキサンドリアに入るまでは絶対に停止するなと」命じたが、イギリス軍の抵抗は殆どなく、29日中にはアレキサンドリアまで100kmの地点に達した[66]
守りを固めるイギリス軍砂漠でドイツ軍を待ち構えるイギリス兵

マルサ・マトルーフから撤退したオーキンレックであったが、補給拠点アレクサンドリアからわずか90kmと補給線が短くなったことで、大量の補給物資や補充戦力で強力なエル・アラメイン防衛線を構築していた。


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