第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。特に、広大な砂漠に展開された北アフリカ戦線においては、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび翻弄し、「砂漠の狐」の異名で呼ばれる活躍を見せた[1]。その活躍によって、敵対する側のイギリス首相チャーチルが、庶民院における演説で「偉大な将軍と申してよいかと思われます」と異例の賞賛を行うなど高く評価し[2]、第二次世界大戦で戦った将軍の中ではもっとも著名で、世界中から賞賛された[3]。
貴族(ユンカー)出身ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもあり、その抜群の武功・戦功と人柄もあってドイツ総統アドルフ・ヒトラーから寵愛されたが、ヒトラーの本質を知るに及んで[4]、ドイツを救うためにヒトラーに反旗を翻し、最終的には自決を強いられるという最期を遂げた(#最期で後述)[2]。
1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた[5]。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった[5]。 エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ
生涯
誕生
父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)[7][8]。また、祖父も教師だった[8][10]。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり[7][8]、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった[11]。
母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である[10][11]。
兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた[7][11][13]。兄のマンフレートは幼いころに死去した[7][11]。
父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった[14]。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない[15]。 子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという[7][16]。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた[7][11]。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している[12]。 1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで[11][17]、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた[17]。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した[17]。当初、ギムナジウムでは劣等生であり[16][17]、怠け者で注意散漫だったという[16][17]。
幼少・少年期