エルヴィス・プレスリー
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[40] 他に、彼が17歳の時の運転免許証の記録によると5フィート11インチ(180cm)とされている。 また、彼のコスチュームデザイナーは5フィート11.5インチ(181cm)であったと語っている。など様々な記録が残っているため、実際は靴を履いた状態で180cmから182cmであったと推測できる。

髪は茶褐色であるが黒く染めていた。

趣味はバッジ収集。

ジェームズ・ディーンの大ファンで、歌手としての目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗」の台詞を全て暗記し、周りを驚かせたこともある。ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声」は、ディーンのために書かれた作品であった。

ホノルルのパール・ハーバーにある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーの収益で建設されたものである。プレスリーは当時の収入について「1日100万ドル使い続けても使い切れない」と述べていた。友人には車や宝石を頻繁に贈った。一方でプレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付も行っていた。殆どが非公式かつ匿名で行われたものだった為、総額や使途は明確には把握されていない。

プレスリーは友人だと認めた人物にのみ親交を持った。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。

アフリカ系アメリカ人に対する差別には反対していたが、全盛期の1950年代から1960年代にかけてアメリカ合衆国に広がったアフリカ系アメリカ人公民権運動には関与しなかった。
元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」

モハメド・アリと交流があった。2人は1973年に初めて会い、プレスリーが死去する1977年まで交友を続けた。アリは歌手ではサム・クックが1番好きで、2番目にプレスリーを好きだったという。プレスリーがアリに贈った金色のマントは、初めて着用して登場した試合で敗れたので以後2度と着用されなかったものの、アリによって厳重に保管された。アリはプレスリーに金色のサイン入りグローブを贈答し、プレスリーもこれを大事に保管した。

関係者はファンを隔離するため、プレスリーをホテルの最上階に軟禁し、窓ガラスに銀紙を貼ることがあった。

現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880「リサ・マリー号」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されている。世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。この機体は1975年デルタ航空(当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後の1979年に登録抹消されている。

「F1チームの元オーナーのクレイグ・ポロックが旧式のハーレーダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー”と書かれていた。プレスリーからジェームズ・ディーンに贈られたされたものであった為オークションに出品したところ、約1億2千万円の値がついた」との出所不明の逸話が日本でのみ広まっているが、ジェームズ・ディーンが事故で他界したのが1955年であり、プレスリーのデビューが1956年であることを鑑みても、キャリア絶頂期で世を去った1955年頃のディーンがデビュー前のプレスリーと交流していたとは考えにくい。また、2人が一緒に写る写真なども存在しない。

1977年、プレスリーの死去を受けて「我が国家の貴重な財産がもぎとられた」と、ジミー・カーター大統領が異例の追悼声明を発表している[41]

メンフィス

グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。
主な使用楽器
マーティンD-18
デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。ブリッジ・ピンを何度も紛失している。1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のレッド・ウェストとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。
マーティン D-28
主にテレビ・ショウで使用された。ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。
ギブソン・J-200
映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。ボディが大容量なため、大音量が出せる。1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。
ギブソン・J-200(特注品)
1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、プレスリーがデザインした人工衛星が描かれたピックガードを装着していた。また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。「エルビス・オン・ステージ」でも確認できる。ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。
ギブソン・ダヴ(特注品)
1971年からJ-200に代わって使用したギター。J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。DOVEという名称の由来のピックガードの鳩のプリントは無い、オール・ブラックのモデル。ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。
ギブソン・ハミングバード
75年から76年にかけて使用していたギター。ピックガードにハチドリのプリントが施されている。ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。
ギブソン・EBS-1250
6弦ベースと6弦ギターのダブルネックのモデル。通常のEBS-1250はドットインレイだが本モデルはレスポールやSGのような台形のインレイを採用した。アコギの様にヘッドにストラップを付けて映画「カリフォルニア万才」で使用。
ハグストロム・ヴァイキングII
テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。スウェーデン製。非常に硬質で特徴的な音色。オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。
グレッチ 6122 カントリー・ジェントルマン
69年から70年まで公演で使用したギター。チェット・アトキンスのシグネイチャー・モデルである。ホロウボディだがFホールはペイント。ドキュメンタリー映画「エルビス・オン・ステージ」のMGMリハーサル撮影の合い間にも使用している。同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。公演ではイスに座り、このギターを弾きながら歌った。
フェンダー・プレシジョンベース(オリジナル・プレシジョン・ベース)
1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。ベーシストのビル・ブラックはウッドベース奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。そこでプレスリーが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。1957年にリニューアルされる前の仕様。
記録

プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。
ギネス・ワールド・レコーズ編

世界で最も成功したソロ・アーティスト

全米No.1シングル18曲(歴代3位)/全英18曲(歴代1位)

最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数:140タイトル

全米No.1アルバム9作/全英6作

全米チャート入りレコード149作/全英98作

シングル発売133枚

最も長期に渡ってNo.1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956?2002年)初のNo.1アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!(1956)」から「ELVIS(2002年)」まで。

最多ヒットシングル記録(151曲)ビルボードtop100へのエントリー回数151回は最多。

1日で最もレコードを売ったアーティスト(エルヴィス・プレスリー/死の翌日、1977年8月17日) 2,000万枚以上の売り上げ。プレスリーの死の衝撃が物語れる。

世界に最もファンクラブが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)世界で(死後にもかかわらず)625のファンクラブが現在活動中である。

世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。アメリカの国定史跡。

統計、評論家などによる投票
ロックの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1986年)
1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。
UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(エルヴィス・プレスリー/英2004年)
2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。
カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年)
1998年、カントリー・ミュージック協会により、カントリーの殿堂入りを果たした。伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。9月23日、テネシー州ナッシュビルグランド・オール・オープリー・ハウスで授賞式が行なわれた。
ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年)
2001年、ゴスペル・ミュージック協会により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとジョニー・キャッシュだけである。
世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right)
イギリスの雑誌『Q』によって発表。音楽のジャーナリスト達の投票により決定。プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。


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