エルヴィス・プレスリー
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孫:ベンジャミン・キーオ、2020年7月12日、銃身自殺により死去[38]



衣装と食生活

1970年代の公演で主に着用された、金やダイヤモンド、ルビーなどを施したジャンプスーツの重量は25kg以上にもなっていた。これは敬愛していたゲイのピアニストであるリベラーチェの影響を受けたものだった。ただし、プレスリーは宝石類にあまり関心を持たず、舞台上で華やかに見えるものなら擬似品でも構わないと考えていた。

プレスリーはたばこを嫌っていた。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から渡された酒も口を付けるだけで殆ど飲んでいない。公演中に飲んでいたのは主にゲータレードである。

プレスリーはコーヒー炭酸飲料、「ピーナッツバターバナナベーコンサンドイッチ」を毎日のように食べていた。このサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにした高カロリーなものであるため、プレスリーが1970年代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったという指摘もある。
影響

日本では湯川れい子小林克也平尾昌晃山下敬二郎ミッキー・カーチス本郷直樹尾藤イサオささきいさお、鹿内孝、藤木孝、西郷輝彦坂本九西田敏行大瀧詠一小泉純一郎等がプレスリー・ファンとして知られている。

アメリカのティーンエイジャーの一部は、プレスリーのダックテールと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルを真似し始めた。また、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのスタイルは、ファッションの新たな流行を生み出した。プレスリーや、ジェームズ・ディーンの影響は、西側世界における3ティーンエイジャー世代の存在を印象付けた。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。

1977年ジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。

アメリカ内務省ゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。
交友関係
メンバー等

70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのジェリー・シェフ
はプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。その理由はジェリーが、ブルース以外の音楽には興味がなかったからである。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。

ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。

プレスリー復帰後のショーでリズムギターを務めていたジョン・ウィルキンソン(英語版)は、元々は歌手であった。プレスリーは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。

プレスリーの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、プレスリーは葬儀の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペルを歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、プレスリーは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。

エピソード

身長については諸説ある。1958年の軍隊の記録では6
フィート(182cm)とされている。[39] これはを履いた状態での記録である。[40] 他に、彼が17歳の時の運転免許証の記録によると5フィート11インチ(180cm)とされている。 また、彼のコスチュームデザイナーは5フィート11.5インチ(181cm)であったと語っている。など様々な記録が残っているため、実際は靴を履いた状態で180cmから182cmであったと推測できる。

髪は茶褐色であるが黒く染めていた。

趣味はバッジ収集。

ジェームズ・ディーンの大ファンで、歌手としての目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗」の台詞を全て暗記し、周りを驚かせたこともある。ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声」は、ディーンのために書かれた作品であった。

ホノルルのパール・ハーバーにある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーの収益で建設されたものである。プレスリーは当時の収入について「1日100万ドル使い続けても使い切れない」と述べていた。友人には車や宝石を頻繁に贈った。一方でプレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付も行っていた。殆どが非公式かつ匿名で行われたものだった為、総額や使途は明確には把握されていない。

プレスリーは友人だと認めた人物にのみ親交を持った。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。

アフリカ系アメリカ人に対する差別には反対していたが、全盛期の1950年代から1960年代にかけてアメリカ合衆国に広がったアフリカ系アメリカ人公民権運動には関与しなかった。
元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」

モハメド・アリと交流があった。2人は1973年に初めて会い、プレスリーが死去する1977年まで交友を続けた。アリは歌手ではサム・クックが1番好きで、2番目にプレスリーを好きだったという。プレスリーがアリに贈った金色のマントは、初めて着用して登場した試合で敗れたので以後2度と着用されなかったものの、アリによって厳重に保管された。アリはプレスリーに金色のサイン入りグローブを贈答し、プレスリーもこれを大事に保管した。

関係者はファンを隔離するため、プレスリーをホテルの最上階に軟禁し、窓ガラスに銀紙を貼ることがあった。

現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880「リサ・マリー号」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されている。世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。この機体は1975年デルタ航空(当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後の1979年に登録抹消されている。

「F1チームの元オーナーのクレイグ・ポロックが旧式のハーレーダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー”と書かれていた。プレスリーからジェームズ・ディーンに贈られたされたものであった為オークションに出品したところ、約1億2千万円の値がついた」との出所不明の逸話が日本でのみ広まっているが、ジェームズ・ディーンが事故で他界したのが1955年であり、プレスリーのデビューが1956年であることを鑑みても、キャリア絶頂期で世を去った1955年頃のディーンがデビュー前のプレスリーと交流していたとは考えにくい。また、2人が一緒に写る写真なども存在しない。

1977年、プレスリーの死去を受けて「我が国家の貴重な財産がもぎとられた」と、ジミー・カーター大統領が異例の追悼声明を発表している[41]

メンフィス

グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。
主な使用楽器
マーティンD-18


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