1970年代の公演で主に着用された、金やダイヤモンド、ルビーなどを施したジャンプスーツの重量は25kg以上にもなっていた。これは敬愛していたゲイのピアニストであるリベラーチェの影響を受けたものだった。ただし、プレスリーは宝石類にあまり関心を持たず、舞台上で華やかに見えるものなら擬似品でも構わないと考えていた。
プレスリーは酒やたばこを嫌っていた。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から渡された酒も口を付けるだけで殆ど飲んでいない。公演中に飲んでいたのは主に水かゲータレードである。
プレスリーはコーヒーや炭酸飲料、「ピーナッツバターとバナナとベーコンのサンドイッチ」を毎日のように食べていた。このサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにした高カロリーなものであるため、プレスリーが1970年代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったという指摘もある。 日本では湯川れい子、小林克也、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、本郷直樹、尾藤イサオ、ささきいさお、鹿内孝、藤木孝、西郷輝彦、坂本九、西田敏行、大瀧詠一、小泉純一郎等がプレスリー・ファンとして知られている。 アメリカのティーンエイジャーの一部は、プレスリーのダックテールと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルを真似し始めた。また、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのスタイルは、ファッションの新たな流行を生み出した。プレスリーや、ジェームズ・ディーンの影響は、西側世界における3ティーンエイジャー世代の存在を印象付けた。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。 1977年にジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。 アメリカ内務省のゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。
影響
交友関係
メンバー等
70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのジェリー・シェフはプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。その理由はジェリーが、ブルース以外の音楽には興味がなかったからである。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
プレスリー復帰後のショーでリズムギターを務めていたジョン・ウィルキンソン
グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。
主な使用楽器
マーティンD-18