エルヴィス・プレスリー
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プレスリーは「自分はドラッグ・カルチャーと、共産主義洗脳について研究してきた」[33]とニクソンに語っている。保守派の政治家として、麻薬撲滅に腐心していたニクソンに対し、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」と発言したことで、プレスリーは麻薬取締官の徽章を贈呈された。なお、プレスリーは警察官や軍に関する徽章等の収集家であった。

プレスリーは熱心な愛国者であったが、自身の政治的見解は公表することはなかった。ニクソンと薬物問題を議論した際も、自身が芸能人であることを予め断り、必要以上に関与しなかった。1972年の記者会見で「政治的なキャリアを追求することを考えたことはありますか?」という問いにプレスリーは「 いいえ、僕にはその願望はありません」と答えている。記者から「兵役についてた頃の話もありましたが、ベトナム戦争の反対運動者についてあなたの意見はどうですか?今日徴兵されることは拒否しますか?」という問いに、プレスリーは「それについての自分の意見は自分の中に留めておくつもりです。僕は芸能人ですからね」と答え、記者は「他の芸能人も貴方と同じように秘密にするべきですか?」と質問するとプレスリーは「いいえ」と答えている。

またプレスリーは人種差別に大変批判的であった。1950年代に一部の白人から寄せられる批判に臆せずに黒人への賛辞を何度も公言しているが、一方で公民権運動には関与しなかった。人種差別やベトナム戦争に反対していたマーティン・ルーサー・キングをプレスリーは熱烈に支持していたが、それを公言することはなかった(キングの訃報を聞いたプレスリーは泣き崩れたという)。この様にプレスリーは、基本的に芸能活動を除き自己主張には積極的ではなかった。
トム・パーカー大佐パーカー大佐とともに(1969年)

トム・パーカーは悪徳マネージャーとして有名だった。プレスリーは世界的に知られた歌手となったが、終生アメリカとカナダ以外で公演を行っていない。海外での公演ができなかった理由は、不法移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。

パーカー大佐は世界中から寄せられるの公演要請に応えるため、衛星中継で公演を放送した。日本公演の要請に対し、日本ゴールデンタイムに衛星生中継で視聴できるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時から公演『アロハ・フロム・ハワイ』を開催した。放送は、日本時間19時から約2時間続いた。

同公演はプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。入場券に定価は設定されず、任意の金額で購入出来た。6000席の会場で約7万5000ドルが集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。

アメリカで公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、日本では4月4日に再放送された。新たにハワイの映像や挿入歌が追加された生放送とは別の編集版であった。既にこの公演のライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[34]

「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売却した。これは長期的に巨額の損失を生んだが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、早急に大金を得るために独断で行ったものだった。プリシラとの離婚に必要な資金は175万ドルであり、プレスリーの印税で難なく稼ぎ出せる金額だった。後年のプレスリーがやや困窮した理由は、楽曲の権利による印税が支払われなくなったためである。プレスリーの関係者は、この事件を「悪名高き1973年の取引」と呼んでいる。

この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満を関係者に多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐を解雇にすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[35]
死と埋葬プレスリーの墓

1977年8月16日、テネシー州メンフィスの自宅グレイスランドで、交際相手のジンジャー・アルデンによって寝室のトイレの床に倒れているプレスリーが発見された。プレスリーはバプテスト記念病院へ搬送されたが、医師により、午後3時30分に死亡が確認された。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された[注釈 2]

晩年、プレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを誤用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。

ハーディンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないと述べているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてウェストは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法薬物は一切使用していないが、この処方薬の影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こす要因が発見されたと報道した[36]

当初プレスリーはメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件が起きたため、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られた車(キャデラック)、自家用機(コンベア880 / リサ・マリー号)などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。
死後

プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。杜撰に管理されていた彼の権利は濫用され、プレスリーの印象を損なう商品が続出した。

生前のプレスリーは名義貸しのつもりで数々の契約書に署名していたが、関係者によって莫大な予算が請求されることがあった(ソニー・ウェストが暴露したテープに電話の内容が記録されている)。

死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理すべく訴訟を起こした(当時、故人の肖像権は帰属等が不明であった)。勝訴した遺族により、以後プレスリーの権利は厳密に管理されている。

未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版が発表され好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてたものや、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化したものもある。エルヴィスの物まねタレント

それ以外にもプレスリーを題材にした映画が製作されたり、プレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌として使用される事も多い。プレスリーの記録である最多ヒット曲数18曲は、2019年にマライア・キャリーの19曲によって更新された。

死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。マクドヴェルのようにプレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[34]

更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーの公演の映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏するエルヴィス・ザ・コンサート(現:エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)がメンフィスで行われ、以後国内外で開催されている。娘のリサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソンと結婚したが、後に離婚している。
フォロワーグレイスランド(Graceland)

プレスリーは多くの国の若者にロックンロールという新しい音楽への強い関心を与えた存在だった。ジョン・レノンボブ・ディランポール・マッカートニーボブ・シーガーフレディ・マーキュリールー・リード[37]ロバート・プラントブルース・スプリングスティーン、テリー・スタッフォード、クリフ・リチャードらをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。

ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ボーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ジョン・シュナイダー、ZZトップ、チープ・トリックらはプレスリーの曲をカバーした。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもその影響を受けていた。
バンド・メンバー

スコティ・ムーア ? リードギター、リズムギター、バックボーカル(1954?59、1960?69、2016年に死亡)

ビル・ブラック ? コントラバス、ベースギター、バックボーカル(1954?58; 1965年に死亡)

DJフォンタナ ? ドラム、バックボーカル(1955?59、1960?69、2018年に死亡)

ゴードン・ストーカー ? バックボーカル、ピアノ、オルガン、アコーディオン、パーカッション(1956?59、1960?68、1969?71、2013年に死亡)

ニール・マシューズ、Jr. ?バックボーカル、ギター、ベースギター、コントラバス(1956?59、1960?68、1969?71; 2000年に死亡)

ホイト・ホーキンス ?バックボーカル、ピアノ、オルガン、パーカッション(1956?59、1960?68、1969?71、1980年に死亡)

ヒュー・ジャレット ? バックボーカル(1956?58; 2008年に死亡)

レイ・ウォーカー ? バックボーカル(1958?59、1960?68、1969?71)

ボブ・ムーア?コントラバス、ベースギター(1958?59、1960?68; 2021年に死亡)

ダドリー・ブルックス ? ピアノ、チェレスタ(1957?59、1960?63; 1989年に死亡)

タイニー・ティンブレル ? リズムとリードギター、マンドリン(1958?59、1963?68; 1992年に死亡)

ジョーダネアーズ - 男性コーラス・グループ

スウィート・インスピレーションズ - 女性・ソウル・コーラス・グループ(ツアーなどで共演)

家族


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