エルヴィス・プレスリー
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歌手活動の本格再開後も、1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画「Elvis: That’s the Way It Is(エルヴィス・オン・ステージ)」や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評を博した[30]。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS」が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。

1974年8月19日に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画「A Star Is Born(スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。

1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。
ビートルズとの会見

プレスリーとビートルズは直接的な接点を持たなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たした。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目でビートルズはロサンゼルスに赴いたが、情報が漏洩したことで自宅周辺には人々が集まった。

この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。通説ではメンバーのジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンリンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。そこでプレスリーはテレビを見ながらベースを演奏してくつろいでいた。感激した4人は呆然としてしまった。気まずい沈黙とぎこちない会話の後、プレスリーが「一晩中俺を見てるだけなら俺はもう寝るぜ?せっかく演奏ができると思って待ってたのにさ」と発言したため、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードサッカーを楽しんでいたという。

ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。プレスリーの妻だったプリシラによれば「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。

ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウは「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問してた。会話は上手くいかなかったけど、プレスリーが楽器を用意して、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないけど、その内の1つは『I Feel Fine』だった事は覚えてるよ。リンゴは木製の家具を叩いてバックビートを鳴らしてた。それは素晴らしいセッションだったよ」と語っている。

「君たちのレコードは全部持ってるよ」と述べたプレスリーに対しレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言し、部屋は重い雰囲気に満ちた。これはレノンの過激な冗談だったとも言われている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの関係者に「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。

後にプレスリーはマッカートニーやハリスンの曲をカバーしているが、レノンの曲は取り上げていない。(ただしビートルズもプレスリーのカバーを正式には残していない)しかしプレスリーの側近であるジェリーシリングによると、プレスリーはレノンがリードボーカルを担当する初期ビートルズの曲も好んでいた。プレスリーは「ハード・デイズ・ナイト」を特に気に入っていたという。しかし、薬物を題材にした楽曲は嫌っていたと側近は語っている。プレスリーはビートルズとの会見の後にも公にビートルズを賞賛している。1969年、プレスリーは記者に「彼らはとても面白くて、とても実験的だ。特に彼らが『 I Saw Her Standing There』辺りを歌ってた頃が好きだったな」と語った。公演でも「ビートルズやドアーズなど、新しいバンドが本当に好きだ」と語っている。
結婚と離婚リサを抱くプリシラとエルヴィス(1968年)

1967年5月1日ネバダ州ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリュー結婚。プリシラはプレスリーの駐西ドイツアメリカ軍における上官の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラをメンフィスに呼び寄せる代わりに、彼女を自らの父親の家に同居させ、有名なカトリック系女子高校を卒業させることを彼女の両親に約束した。しかし、程なく2人はグレイスランドで同居し始めた。1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。

その4年後、結婚前から続くプレスリーの悪い生活習慣(昼夜逆転)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの関係者)との生活、さらに数ヶ月にも及ぶツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは不倫し、結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。プレスリーは彼女と1973年10月9日に正式に離婚した。

一方で、離婚後も2人は友人関係にあり、以前よりも密に連絡し合うようになった。ロサンゼルスに滞在する際にプリシラの家を訪れたり、時折プリシラをグレイスランドに呼び寄せるなど、2人は親交を保った。
1960年代、70年代の音楽活動

プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言える状態だった。量産された映画とブリティッシュ・インヴェイジョンによる影響は否定できず、プレスリーもそれを自覚していた。一方1965年の「クライング・イン・ザ・チャペル」(オリオールズの曲をカバー)が好成績を収めた。1968年のテレビ出演で歌手活動を本格的に再開したプレスリーは、1969年に「サスピシャス・マインズ」[31]、「イン・ザ・ゲットー」を発売した。1969年から過密な日程による公演活動を再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行った公演は1000回以上であり、平均すると1年につき約125回だった。

1969年より、ネバダ州ラスベガスを中心に多数の公演を実施したが、その規模は次第大きくなっていった。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年NBC-TVスペシャル以降、プレスリーはロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、トニー・ジョー・ホワイト、ニール・ダイアモンド、BJトーマスらのゴスペルやポップ等を取り入れた。バンドもコーラス・グループやピアノ等を新たに加え、オーケストラまで揃えて大きく膨れ上がった。なおこの頃から着用し始めた派手な衣装は、リベラーチェに影響されたとされる。1972年には「バーニング・ラヴ」が、ビルボード2位まで上昇する大ヒットとなっている[32]。1970年代にエルヴィスは他に、「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。

プレスリーはラスベガスでのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。活動再開後、生前最後となる1977年6月26日インディアナ州インディアナポリス公演まで入場券は完売した。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも、最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。
ニクソンとの面会リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)

1960年代半ばからアメリカは非常に混沌とした時代になった。ヒッピーの過激な反戦運動の中で、フリーセックス、栄養失調、病気、LSDなどの薬物中毒の問題などが浮上し、犯罪と暴力が急増した。

プレスリーはドラッグが蔓延るヒッピー文化の暴動と、過激なカウンターカルチャーによるアメリカの未来を危惧していたという。1970年12月21日には、アメリカン航空ワシントンD.C.に出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。

「私はエルヴィス・プレスリーです。あなたを尊敬しています。私は3週間前にパームスプリングスでアグニュー副大統領と話し、我が国に対する懸念を表明しました。麻薬文化、ヒッピー、SDS、ブラックパンサーなど。私は彼等にとって敵では無く彼らの言う「体制」ではなく、私はアメリカを愛する者です。私はこの国を助けるためにできるだけの手伝いをさせていただきたい。私には国を助けること以外に何の関心も動機もありません。ですから私は役職を与えられたくないのです。もし私が連邦捜査官になったら、もっと良いことができます。あらゆる年齢層の人々とのコミュニケーションを通じて、私なりの方法でそれを手助けするつもりです。何よりも私はエンターテイナーです。


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