エルヴィス・プレスリー
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1954年7月5日のリハーサル休憩中、プレスリーは“That’s All Right, Mama”[23] を歌い始めた。即興演奏ではあったが、プレスリーが適所を得たかもしれないと考えたフィリップスは録音を始め、不在だったドラマーの代わりにベースを演奏させた。B面として“Blue Moon of Kentucky”を収録したシ 同曲は、WHBQラジオが放送した2日後に、メンフィスでの局所的なヒットとなった。ラジオを聴いた人々はプレスリーを黒人歌手だと勘違いしていたという。

プレスリーが公演を始めると、その評判はテネシー州中に広まった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っているように、プレスリーの自信は高くなかった。また、白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”の事を言ったものだが、実際には更に差別的な言い方であった)は連れてこないでくれ」と連絡を受けることが度々あった。プレスリーはその要望を拒否し、後に謝罪と多額の慰謝料を差し出されるも拒絶した。

この逸話から分かるように、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカ音楽業界にも人種隔離が多く残っていた。当時の黒人ロックンロール歌手によるヒット曲も、パット・ブーンら白人歌手によるカバー版が白人向けの商品として宣伝され、ラジオなどで放送される傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として注目された。

サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルを発売した。

That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky” - Sun 209, 1954年7月19日

“Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don't Shine” - Sun 210, 1954年9月25日

“Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker” - Sun 215, 1954年12月28日

Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone” - Sun 217, 1955年4月10日

Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget” - Sun 223, 1955年8月6日

「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。

既に他の歌手のマネージャーとして活動していたトム・パーカー(通称・パーカー大佐)は、プレスリーの先進性を聞きつけると彼に接触、マネージャーに就任した。1955年8月18日にプレスリーの両親はパーカーとの契約書に署名し、サンとの関係を終了した。
RCAとの契約ハーレー・ダビッドソンに乗るエルヴィス(1956年)リベラーチェとエルヴィス(1956年)エド・サリヴァンとエルヴィス(1956年)

プレスリーは1955年11月21日RCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショー」にてテレビに初出演し、黒人のR&Bを歌った。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対して各地のPTAや宗教団体から激しい非難を受けた。一方でプレスリーは若年層を中心に多数のファンを集めるようになった。

1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” が発売され、1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。

録音のため、1950年代はニューヨーク州ニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、後の主演映画の挿入歌を除き、録音に最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降は、カリフォルニア州ロサンゼルスハリウッドにあるRCAスタジオやメンフィスのスタジオを利用した。1976年になると、RCAの社員がプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込んで録音を行った。

後年のプレスリーが録音自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジが彼の意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調不良など様々な理由があった。

プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式の録音にこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌った。現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後、現在までに発見された様々な未発表テイクの中には、発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、録音に関心がなくなった頃には体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、概ねそれは実現しなかった。

1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスが滞在していたサン・レコードに赴き、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの楽曲を発売する権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共演していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない[24]。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売上が国内1位であることを報じられた[25]。また『ビルボード』誌で100位以内に到達した曲数が史上最高となった[26]。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売上の半数がプレスリーのものであった[27]
エド・サリヴァン・ショー

当時のアメリカの人気音楽番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した[28]。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組であるため、保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が、プレスリーにジャケットを着用させ、意図的にプレスリーの上半身だけを撮影したと伝えられている。

上記の様なやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は鎮静化した。また同番組がアメリカ全土への宣伝に大きく役立ったと言われている。
軍歴陸軍に勤務していた頃のプレスリー

1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制度を施行しており、陸軍は2年間の徴兵期間を設けていた。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した[29]

徴兵命令が来た際、プレスリーは映画「闇に響く声」を撮影中で、入営を少し延期しなければならなかった。徴兵局は入営の延期を要請したパラマウントに対し、プレスリーの出頭を求めた。翌日、プレスリーは徴兵局へ赴き、延期を申し入れた。

1958年8月11日、機甲科向けの専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、8月12日に外出を許可した。グラディスは8月14日に亡くなり、翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。

プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理中隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学び、軍曹まで昇進した(空手8段と言われることがあるが、実際には空手ではなく、除隊後にトレーニングした韓国人のカン・リー道場での最終段位であり、空手道とは関係がない。公開されている免状には韓国国旗とアメリカ国旗があしらわれている)。また在籍中、軍の病院において扁桃腺炎と診断された。その際、医師は声の変調を恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、プレスリーは回復した。

1960年3月2日、プレスリーは除隊し、帰国の途に就いた。途中スコットランドを経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。


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