エルヴィス・アーロン・プレスリー(Elvis Aron Presley、1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのロック歌手、ミュージシャン、映画俳優。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは5億枚以上とされている[8][9]、史上最も売れた音楽家の一人[10][11]。「キング・オブ・ロックンロール」と称される[12]。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている[13]。 1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ビル・ヘイリーら[14] と共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている[15]。1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、ボブ・シーガー、フレディ・マーキュリー、テリー・スタッフォード[16]など、多くのロック、ポップのミュージシャンたちが憧れたことでも知られる(下段・フォロワーを参照)。 初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。 その後全国的な人気を得たが、白人社会だった当時は保守層から「プレスリーはセックス狂」や「彼は白人を黒人に陥れる」など、凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」も問題となり、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWK FM & AMラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送[17]。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。 そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思ってないさ。自分を表現する方法なんだ」「俺は人々に悪影響を与えてるとは思わない。もしそう思ったら、俺はトラック運転手に戻るよ。本気でそう思ってるんだ」と答えている。 プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。 プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位[18]。 プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家(トイレも水道も無い掘立小屋)で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916 - 1979)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912 - 1958)の3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど極貧生活を強いられるも、両親はプレスリーを大事に育てた。 敬虔なキリスト教プロテスタント[19] (ペンテコステ派)[20]の家庭に育ったプレスリーは、9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりにアコースティック・ギターを買い与えられた。これを機に自宅の地下洗濯部屋でギターを練習し、音楽に傾倒していった。 1948年、プレスリーが13歳の時に一家はテネシー州メンフィスへと引っ越し、下宿生活を経て1949年にメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスには非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、プレスリーは黒人の音楽を日常的に聴いて育ち、エリス公会堂で行われていたゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。毎回欠かさず観に来ていたプレスリーは、ある日入場料を支払えないため1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、以降は無料でショーを観ることができた(1970年代の公演ではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。高等学校を卒業したプレスリーは、精密金型製造会社に就職した後、クラウン・エレクトリック社に転職してトラック運転手として働いていた。 1953年夏、プレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。 サン・レコードの創業者サム・フィリップス[21]とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞き、プレスリーの才能を感じた。
概要
経歴
生い立ち
サン・レコード時代サン・レコード時代のエルヴィス(1954年)