エルビス・プレスリー
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1972年には「バーニング・ラヴ」が、ビルボード2位まで上昇する大ヒットとなっている[32]。1970年代にエルヴィスは他に、「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。

プレスリーはラスベガスでのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。活動再開後、生前最後となる1977年6月26日インディアナ州インディアナポリス公演まで入場券は完売した。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも、最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。
ニクソンとの面会リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)

1960年代半ばからアメリカは非常に混沌とした時代になった。ヒッピーの過激な反戦運動の中で、フリーセックス、栄養失調、病気、LSDなどの薬物中毒の問題などが浮上し、犯罪と暴力が急増した。

プレスリーはドラッグが蔓延るヒッピー文化の暴動と、過激なカウンターカルチャーによるアメリカの未来を危惧していたという。1970年12月21日には、アメリカン航空ワシントンD.C.に出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。

「私はエルヴィス・プレスリーです。あなたを尊敬しています。私は3週間前にパームスプリングスでアグニュー副大統領と話し、我が国に対する懸念を表明しました。麻薬文化、ヒッピー、SDS、ブラックパンサーなど。私は彼等にとって敵では無く彼らの言う「体制」ではなく、私はアメリカを愛する者です。私はこの国を助けるためにできるだけの手伝いをさせていただきたい。私には国を助けること以外に何の関心も動機もありません。ですから私は役職を与えられたくないのです。もし私が連邦捜査官になったら、もっと良いことができます。あらゆる年齢層の人々とのコミュニケーションを通じて、私なりの方法でそれを手助けするつもりです。何よりも私はエンターテイナーです。必要なのは連邦資格だけです。」という手紙をニクソンに送った。

その40分後、大統領補佐官から面会を許す旨の電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストを伴い、プレスリーはホワイトハウスへ赴きリチャード・ニクソン大統領との会見に臨んだ。写真はその際撮影されたものである。プレスリーは連邦捜査局本部の視察を許可された。若者の凄まじい反米精神と、不健全なヒッピーカルチャーを深刻な問題として考えていたプレスリーは、ビートルズ、スマザーズ・ブラザーズ、ジェーン・フォンダなどの過激な発言と活動を危険視していた。プレスリーは彼等を厳しく取り締まるべきと考えていたという。

プレスリーは「自分はドラッグ・カルチャーと、共産主義洗脳について研究してきた」[33]とニクソンに語っている。保守派の政治家として、麻薬撲滅に腐心していたニクソンに対し、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」と発言したことで、プレスリーは麻薬取締官の徽章を贈呈された。なお、プレスリーは警察官や軍に関する徽章等の収集家であった。

プレスリーは熱心な愛国者であったが、自身の政治的見解は公表することはなかった。ニクソンと薬物問題を議論した際も、自身が芸能人であることを予め断り、必要以上に関与しなかった。1972年の記者会見で「政治的なキャリアを追求することを考えたことはありますか?」という問いにプレスリーは「 いいえ、僕にはその願望はありません」と答えている。記者から「兵役についてた頃の話もありましたが、ベトナム戦争の反対運動者についてあなたの意見はどうですか?今日徴兵されることは拒否しますか?」という問いに、プレスリーは「それについての自分の意見は自分の中に留めておくつもりです。僕は芸能人ですからね」と答え、記者は「他の芸能人も貴方と同じように秘密にするべきですか?」と質問するとプレスリーは「いいえ」と答えている。

またプレスリーは人種差別に大変批判的であった。1950年代に一部の白人から寄せられる批判に臆せずに黒人への賛辞を何度も公言しているが、一方で公民権運動には関与しなかった。人種差別やベトナム戦争に反対していたマーティン・ルーサー・キングをプレスリーは熱烈に支持していたが、それを公言することはなかった(キングの訃報を聞いたプレスリーは泣き崩れたという)。この様にプレスリーは、基本的に芸能活動を除き自己主張には積極的ではなかった。
トム・パーカー大佐パーカー大佐とともに(1969年)

トム・パーカーは悪徳マネージャーとして有名だった。プレスリーは世界的に知られた歌手となったが、終生アメリカとカナダ以外で公演を行っていない。海外での公演ができなかった理由は、不法移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。

パーカー大佐は世界中から寄せられるの公演要請に応えるため、衛星中継で公演を放送した。日本公演の要請に対し、日本ゴールデンタイムに衛星生中継で視聴できるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時から公演『アロハ・フロム・ハワイ』を開催した。放送は、日本時間19時から約2時間続いた。

同公演はプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。入場券に定価は設定されず、任意の金額で購入出来た。6000席の会場で約7万5000ドルが集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。

アメリカで公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、日本では4月4日に再放送された。新たにハワイの映像や挿入歌が追加された生放送とは別の編集版であった。既にこの公演のライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[34]

「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売却した。これは長期的に巨額の損失を生んだが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、早急に大金を得るために独断で行ったものだった。プリシラとの離婚に必要な資金は175万ドルであり、プレスリーの印税で難なく稼ぎ出せる金額だった。後年のプレスリーがやや困窮した理由は、楽曲の権利による印税が支払われなくなったためである。プレスリーの関係者は、この事件を「悪名高き1973年の取引」と呼んでいる。

この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満を関係者に多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐を解雇にすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[35]


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