エルビス・プレスリー
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敬虔なキリスト教プロテスタント[19] (ペンテコステ派)[20]の家庭に育ったプレスリーは、9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりにアコースティック・ギターを買い与えられた。これを機に自宅の地下洗濯部屋でギターを練習し、音楽に傾倒していった。

1948年、プレスリーが13歳の時に一家はテネシー州メンフィスへと引っ越し、下宿生活を経て1949年にメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスには非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、プレスリーは黒人の音楽を日常的に聴いて育ち、エリス公会堂で行われていたゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。毎回欠かさず観に来ていたプレスリーは、ある日入場料を支払えないため1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、以降は無料でショーを観ることができた(1970年代の公演ではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。高等学校を卒業したプレスリーは、精密金型製造会社に就職した後、クラウン・エレクトリック社に転職してトラック運転手として働いていた。
サン・レコード時代サン・レコード時代のエルヴィス(1954年)

1953年夏、プレスリーはメンフィスサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。

サン・レコードの創業者サム・フィリップス[21]とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞き、プレスリーの才能を感じた。そして1954年6月に行方不明となった歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、フィリップスは地元のミュージシャン、スコティ・ムーア[22]ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始めたが、その後歌いながら腰を揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。

1954年7月5日のリハーサル休憩中、プレスリーは“That’s All Right, Mama”[23] を歌い始めた。即興演奏ではあったが、プレスリーが適所を得たかもしれないと考えたフィリップスは録音を始め、不在だったドラマーの代わりにベースを演奏させた。B面として“Blue Moon of Kentucky”を収録したシ 同曲は、WHBQラジオが放送した2日後に、メンフィスでの局所的なヒットとなった。ラジオを聴いた人々はプレスリーを黒人歌手だと勘違いしていたという。

プレスリーが公演を始めると、その評判はテネシー州中に広まった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っているように、プレスリーの自信は高くなかった。また、白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”の事を言ったものだが、実際には更に差別的な言い方であった)は連れてこないでくれ」と連絡を受けることが度々あった。プレスリーはその要望を拒否し、後に謝罪と多額の慰謝料を差し出されるも拒絶した。

この逸話から分かるように、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカ音楽業界にも人種隔離が多く残っていた。当時の黒人ロックンロール歌手によるヒット曲も、パット・ブーンら白人歌手によるカバー版が白人向けの商品として宣伝され、ラジオなどで放送される傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として注目された。

サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルを発売した。

That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky” - Sun 209, 1954年7月19日

“Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don't Shine” - Sun 210, 1954年9月25日

“Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker” - Sun 215, 1954年12月28日

Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone” - Sun 217, 1955年4月10日

Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget” - Sun 223, 1955年8月6日

「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。

既に他の歌手のマネージャーとして活動していたトム・パーカー(通称・パーカー大佐)は、プレスリーの先進性を聞きつけると彼に接触、マネージャーに就任した。1955年8月18日にプレスリーの両親はパーカーとの契約書に署名し、サンとの関係を終了した。
RCAとの契約ハーレー・ダビッドソンに乗るエルヴィス(1956年)リベラーチェとエルヴィス(1956年)エド・サリヴァンとエルヴィス(1956年)

プレスリーは1955年11月21日RCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショー」にてテレビに初出演し、黒人のR&Bを歌った。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対して各地のPTAや宗教団体から激しい非難を受けた。一方でプレスリーは若年層を中心に多数のファンを集めるようになった。

1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” が発売され、1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。

録音のため、1950年代はニューヨーク州ニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、後の主演映画の挿入歌を除き、録音に最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降は、カリフォルニア州ロサンゼルスハリウッドにあるRCAスタジオやメンフィスのスタジオを利用した。1976年になると、RCAの社員がプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込んで録音を行った。

後年のプレスリーが録音自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジが彼の意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調不良など様々な理由があった。

プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式の録音にこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌った。現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後、現在までに発見された様々な未発表テイクの中には、発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、録音に関心がなくなった頃には体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、概ねそれは実現しなかった。

1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスが滞在していたサン・レコードに赴き、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの楽曲を発売する権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共演していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない[24]。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売上が国内1位であることを報じられた[25]。また『ビルボード』誌で100位以内に到達した曲数が史上最高となった[26]


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