エルパソ_(テキサス州)
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しかし、両国において緊張が高まり、暗殺予告までなされる事態となったため、テキサス・レンジャー、アメリカ・メキシコ両国軍4,000人、アメリカ合衆国シークレットサービス連邦捜査局、および警察を全て動員して警護にあたらせた[10]。この時に警護にあたった者の中には、後に「スカウティングの父」と呼ばれることになるフレデリック・ラッセル・バーナムもいた。この時のバーナムは、イェール大学時代からのタフトの親友で、メキシコに多額の投資をしていたジョン・ヘイズ・ハモンドに雇われていた[11][12]。首脳会談当日の10月16日、バーナムおよびテキサス・レンジャーのC・R・ムーアは、小型の拳銃を隠し持っていた男が行列の進路上に建つエルパソ商業局庁舎前に立っているのを発見し[13][14]、この男をタフトおよびディアスの数フィート手前で捕捉し、武装解除させ、逮捕した[15][16]

1910年頃には、市の人口の大半はアメリカ人で占められていた。しかし、メキシコ革命が勃発した後、特に1913-15年にかけて、聖職者や知識人、実業家など、大量のメキシコ系難民が市に移入してきた。やがて市には、メキシコ系難民の中間層によって、スペイン語の新聞、劇場、映画館や学校が建てられていった。エルパソのダウンタウン(1908年

やがて、エルパソへと逃れた大量のメキシコ系ディアスポラと共に、メキシコ革命の暴力はエルパソへも及んだ。19151617年と立て続けに、様々なメキシコの革命派集団が、エルパソに住まう、アメリカ人とメキシコ人政敵の両方に対して、暴力的攻撃を計画・実行した。その最中、サンディエゴ計画の露見による騒乱で、21人の白人市民が殺害された。その後の地元民兵による報復は暴力に輪をかけ、300人(推定)ものメキシコ人およびメキシコ系アメリカ人が命を落とす事態となった。これら一連の騒乱はリオグランデバレー下流域の住民ほぼ全てに影響を及ぼし、何百万ドルにものぼる損害を出し、その後も長きにわたって、この地のアメリカ人とメキシコ人の間に禍根を残すことになった[17]

同時に、アメリカ人の市への流入も続き、1920年には陸軍の兵も含めた人口は100,000人を超え、再び白人が多数派となった。その一方で、市内におけるメキシコ人とアメリカ人・メキシコ系アメリカ人の人種隔離は進んだ。これに呼応して、カトリック教会は教育や、全米カトリック福祉基金などの政治・市民団体を通じて、メキシコ系アメリカ人コミュニティの忠誠を集めようとした[18]

この地では次第に鉱業やその他の産業が発展していった。1897年にはエルパソ・アンド・ノースイースタン鉄道が開業し、周辺地域、特にニューメキシコ準州南東部における天然資源の採掘に役立った。1920-30年代には、禁酒法時代の酒密造などにより、商業が発達した[7]。しかし、軍の解散や農業経済不況、そして続く世界恐慌により、エルパソの地域経済は大打撃を受け、第二次世界大戦の終戦まで、エルパソの人口は特に白人が流出して減り続けた。それでも1940年代まで、エルパソの人口構成においては白人が多数派を占めていた。

第二次世界大戦中から戦後にかけてのこの地における軍拡、およびエルパソの東に広がるパーミアン盆地での油田の発見により、20世紀中盤のエルパソは再び急速に経済的発展を遂げていくようになった。製錬石油精製や、低賃金の工業(特に被服)の発展によって、市は成長していった。加えて、その多くが白人を占めていた、この地域の周縁部における人口が、エルパソのような都市部に流入し、資本と労働者が短期間で膨れ上がった。しかしそれと同時に、中流階級のアメリカ人は新しい、より高給の職を求めて、国内の他地域へと流出した。そのため、地元産業は安価なメキシコ人労働者を求めて、南へと目を向けた。加えて、ブラセロ・プログラムによって、1942-56年にかけて、メキシコ人労働者がエルパソの周縁部に流入し、流出した白人の穴を埋めた。やがて、そのメキシコ人労働者たちも、より高給の職を求めてエルパソ市内に流入した。1965年頃には、ヒスパニック系が人口構成における多数派を占めるようになった。その一方で、第二次世界大戦後の高成長は1960年代に入ると鈍化したものの、市は周辺地域の編入を繰り返し、またメキシコとの重要な経済関係もあって、成長し続けた。


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