エルパソ_(テキサス州)
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その後1692年にスペインがサンタフェを再占領すると、ニューメキシコの首都はサンタフェに戻された。しかしその後も、1850年協定によってニューメキシコがアメリカ合衆国に編入され、この地がテキサス州に編入されるまで、エルパソはニューメキシコ最大の入植地であった。

この地域におけるアメリカ人の割合が少なく、総人口の1割にも満たなかったため、1836年に勃発したテキサス独立戦争では、エルパソはさほど影響は受けなかった。しかし、戦後にテキサス共和国がメキシコと交わした条約の一環として、テキサス共和国はこの地域の領有権を主張し、その主張を強化する試みが幾度もなされた。しかし、1846年にテキサスの統治が決定的になるまで、メキシコとテキサス共和国の間でこの地の統治をめぐる交渉が進められ、エルパソとその周辺はその間、基本的には自治領となっていた。

1836-48年の自治領時代にも、この地へのアメリカ人の入植は続いた。1840年代中盤には、ランチョ・デ・フアン・マリア・ポンセ・デ・レオン等のスペイン系の入植地が古くから既にあったのに加えて、シメオン・ハートやヒュー・スティーブンソンら、アングロサクソン系の入植者が、テキサスへの忠誠のためにこの地に入植してきた。地元のスペイン系貴族の娘と結婚したスティーブンソンは1844年、現代のエルパソ市域内では初のアングロサクソン系・スペイン系入植地の核となる、ランチョ・デ・サン・ホセ・デ・ラ・コンコルディアの入植地を創設した。テキサス共和国の開拓に相当な量のサンタフェ交易を要したことを考えれば、グアダルーペ・イダルゴ条約は、メキシコ側のオールド・エルパソ・デル・ノルテから切り離されたリオグランデ川北岸の入植地を、正式にアメリカ合衆国のものとするのに効果的であった[6]。やがて1850年協定によって、現代と同じ、エルパソをテキサス側に置くテキサス・ニューメキシコ州境が引かれた。

1850年3月、エルパソ郡が創設され、その最初の郡庁がサンエリザリオに置かれた。連邦上院はテキサス・ニューメキシコ州境を北緯32度線と定めたため、歴史や地形はほとんど考慮されなかった。1854年には、The Post opposite El Paso (エルパソ・デル・ノルテとリオグランデ川を挟んだ対岸、の意)という名の駐屯地が創設された。その西、クーンズ・ランチョに創られた、フランクリンという名の入植地は、後のエルパソ市の核となった。その翌年、開拓者アンソン・ミルズは町の計画を完成させ、エルパソと名付けた。しかし、この頃に創られた入植地を全部合わせても、ほぼ同数ずつのアングロサクソン系とスペイン系から成るその人口は数百人程度に過ぎなかった[7]

南北戦争が開戦すると、この地は南軍の支配下に置かれた。しかし、1862年北軍のカリフォルニア部隊がこの地を制圧すると、その後1864年12月に至るまで、この地にカリフォルニア第5志願兵歩兵連隊の本部が置かれた[8]エルパソ(1880年頃)

南北戦争の終結後、アメリカ人が村に流入し続け、人口は増え始めた。エルパソ自体は1873年に法人化され、川沿いに発展していた周辺の小さな集落を包含した。やがて1881年サザン・パシフィック鉄道、テキサス・アンド・パシフィック鉄道、およびアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が開通すると人口が一気に急増し、1890年の国勢調査時には古くからのスペイン系の入植者に加えて、新たに流入したメキシコ系やアングロサクソン系を合わせて10,000人を超えた。立地条件に加えて、新たに荒くれ者も流入したため、エルパソは無法地帯化し、Six Shooter Capital (6人の狙撃者の都)と呼ばれ、暴力的で荒々しい、急成長途上の町として知られるようになった[7]。また、売春や賭博がはびこり、その状態は第一次世界大戦下で陸軍省が市当局に圧力をかけるようになるまで続いた。こうした圧力と地理的条件から、市はやがて、アメリカ合衆国南西部における工業、交通、および小売業の中心地として発展するようになっていった。

1909年ウィリアム・タフトポルフィリオ・ディアスは、エルパソとシウダー・フアレスでの首脳会談を計画した。この歴史的な会談はアメリカ・メキシコ両国の大統領による初めての会談であるとともに、アメリカ合衆国大統領が史上初めて国境を越えてメキシコを訪問するというものでもあった[9]。しかし、両国において緊張が高まり、暗殺予告までなされる事態となったため、テキサス・レンジャー、アメリカ・メキシコ両国軍4,000人、アメリカ合衆国シークレットサービス連邦捜査局、および警察を全て動員して警護にあたらせた[10]。この時に警護にあたった者の中には、後に「スカウティングの父」と呼ばれることになるフレデリック・ラッセル・バーナムもいた。この時のバーナムは、イェール大学時代からのタフトの親友で、メキシコに多額の投資をしていたジョン・ヘイズ・ハモンドに雇われていた[11][12]。首脳会談当日の10月16日、バーナムおよびテキサス・レンジャーのC・R・ムーアは、小型の拳銃を隠し持っていた男が行列の進路上に建つエルパソ商業局庁舎前に立っているのを発見し[13][14]、この男をタフトおよびディアスの数フィート手前で捕捉し、武装解除させ、逮捕した[15][16]

1910年頃には、市の人口の大半はアメリカ人で占められていた。しかし、メキシコ革命が勃発した後、特に1913-15年にかけて、聖職者や知識人、実業家など、大量のメキシコ系難民が市に移入してきた。やがて市には、メキシコ系難民の中間層によって、スペイン語の新聞、劇場、映画館や学校が建てられていった。エルパソのダウンタウン(1908年

やがて、エルパソへと逃れた大量のメキシコ系ディアスポラと共に、メキシコ革命の暴力はエルパソへも及んだ。19151617年と立て続けに、様々なメキシコの革命派集団が、エルパソに住まう、アメリカ人とメキシコ人政敵の両方に対して、暴力的攻撃を計画・実行した。その最中、サンディエゴ計画の露見による騒乱で、21人の白人市民が殺害された。その後の地元民兵による報復は暴力に輪をかけ、300人(推定)ものメキシコ人およびメキシコ系アメリカ人が命を落とす事態となった。これら一連の騒乱はリオグランデバレー下流域の住民ほぼ全てに影響を及ぼし、何百万ドルにものぼる損害を出し、その後も長きにわたって、この地のアメリカ人とメキシコ人の間に禍根を残すことになった[17]

同時に、アメリカ人の市への流入も続き、1920年には陸軍の兵も含めた人口は100,000人を超え、再び白人が多数派となった。その一方で、市内におけるメキシコ人とアメリカ人・メキシコ系アメリカ人の人種隔離は進んだ。これに呼応して、カトリック教会は教育や、全米カトリック福祉基金などの政治・市民団体を通じて、メキシコ系アメリカ人コミュニティの忠誠を集めようとした[18]

この地では次第に鉱業やその他の産業が発展していった。1897年にはエルパソ・アンド・ノースイースタン鉄道が開業し、周辺地域、特にニューメキシコ準州南東部における天然資源の採掘に役立った。1920-30年代には、禁酒法時代の酒密造などにより、商業が発達した[7]。しかし、軍の解散や農業経済不況、そして続く世界恐慌により、エルパソの地域経済は大打撃を受け、第二次世界大戦の終戦まで、エルパソの人口は特に白人が流出して減り続けた。それでも1940年代まで、エルパソの人口構成においては白人が多数派を占めていた。

第二次世界大戦中から戦後にかけてのこの地における軍拡、およびエルパソの東に広がるパーミアン盆地での油田の発見により、20世紀中盤のエルパソは再び急速に経済的発展を遂げていくようになった。製錬石油精製や、低賃金の工業(特に被服)の発展によって、市は成長していった。加えて、その多くが白人を占めていた、この地域の周縁部における人口が、エルパソのような都市部に流入し、資本と労働者が短期間で膨れ上がった。しかしそれと同時に、中流階級のアメリカ人は新しい、より高給の職を求めて、国内の他地域へと流出した。そのため、地元産業は安価なメキシコ人労働者を求めて、南へと目を向けた。加えて、ブラセロ・プログラムによって、1942-56年にかけて、メキシコ人労働者がエルパソの周縁部に流入し、流出した白人の穴を埋めた。


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