1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。シングルでは「ホンキー・キャット」「ロケット・マン」「クロコダイル・ロック」「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」「土曜の夜は僕の生きがい」「ベニーとジェッツ」ほか多数のヒット作を発表。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に彼は数多くの成果をあげた[1]。当時、若手アーティストとしてギルバート・オサリバンをライバルとして認めた。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはバート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガーのライティングコンビによるディオンヌ・ワーウィックらとによるディオンヌ&フレンズとしてデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。1980年代後半から1990年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。1990年代前半からは依存症を克服し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詞の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は、2015年現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。
彼の音楽性は、初期のフォークソング、フォーク・ロック志向から、さらにはオールディーズ風ロックンロール[注 2]、ソウル、ブルーアイド・ソウルに至るまで、幅広い。バラード・シンガーと見られることも多いが、サービス精神旺盛なロックンローラーであり、その派手なパフォーマンスも注目を浴びた。過剰なまでの派手な衣装も特徴である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。ピアノの曲弾きや、クライマックスではピアノの上によじ登ってダンスを行うこともあった。
70年代に両性愛者を公表したが、後に同性婚をしている[12]。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。2017年にオーストラリアに同性婚合法化の国民投票のときに、インスタグラムで昔「本当の自分を否定して」女性と結婚して彼女を悲しませたことを投稿した[13]。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、エルトン・ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。性格は繊細さとロックのワイルド性を併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功した。それらを自らギャグとして披露してもいる。また、セレブであり辛辣な言動などから、ゴシップでとりあげられる存在である。取材に対しては饒舌であり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また、クラブチームを保有していた時期がある。 RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイト(1925年-1991年)と妻シェイラ(1925年-2017年)の間に生まれ、レジナルド・ケネス・ドワイトと名付けられた。レジナルドは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。スタンリーとシェイラはレジナルドが15歳だった1962年に離婚した。母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚した。 4歳の頃から、レジナルドはピアノを弾き始める。彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブス
来歴
生い立ちからデビュー
1960年に、レジナルドは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドは、やがてブルーソロジー(英語版)に発展する。ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及びパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポート・ミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。
レジナルドは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーであるレイ・ウィリアムズがニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せた募集広告に応募する。最初の面接でレジナルドは落ちた。しかしこの面接の際、作詞がうまくできないと言ったレジナルドに、事務所スタッフが同じ広告に応募してきていたバーニー・トーピンの歌詞の封筒を渡してくれた。レジナルドはこの歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりとなった。
1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。トーピンと出会って半年後に、レジナルドは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサクソフォーン奏者だったエルトン・ディーン(のちにソフト・マシーンに加入し著名となる)の名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。
ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。
違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、ケイレブ・クエイ(英語版)がプロデュースした、1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たにもかかわらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、にわかに注目を浴び始めることとなる。
1970年代