エルトン・ジョン
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RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイト(1925年-1991年)と妻シェイラ(1925年-2017年)の間に生まれ、レジナルド・ケネス・ドワイトと名付けられた。レジナルドは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。スタンリーとシェイラはレジナルドが15歳だった1962年に離婚した。母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚した。

4歳の頃から、レジナルドはピアノを弾き始める。彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブスなど。ピアニストとしては、クラシック音楽のヨハン・ゼバスティアン・バッハフレデリック・ショパンの演奏を得意とした。

1960年に、レジナルドは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドは、やがてブルーソロジー(英語版)に発展する。ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及びパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポート・ミュージシャンとなり、イギリスキャバレーをまわるツアーに参加している。

レジナルドは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーであるレイ・ウィリアムズがニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せた募集広告に応募する。最初の面接でレジナルドは落ちた。しかしこの面接の際、作詞がうまくできないと言ったレジナルドに、事務所スタッフが同じ広告に応募してきていたバーニー・トーピンの歌詞の封筒を渡してくれた。レジナルドはこの歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりとなった。

1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。トーピンと出会って半年後に、レジナルドは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサクソフォーン奏者だったエルトン・ディーン(のちにソフト・マシーンに加入し著名となる)の名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。

ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。

違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、ケイレブ・クエイ(英語版)がプロデュースした、1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たにもかかわらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、にわかに注目を浴び始めることとなる。
1970年代

1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作したセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛したこの曲は、彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。

クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーが参加した。彼らは、ジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には、所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降、彼のアルバムはこのレーベルから発表された。1975年のエルトン・ジョン

この時期の作品の中で最も成功したとされるのが、1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』である。現在もコマーシャルなどで頻繁に使用されるタイトル・ナンバーや、後にリメイクされて幾度もヒットする「風の中の灯のように(キャンドル・イン・ザ・ウィンド)」などを収録したこの作品は、現在も一般的な彼の最高傑作として評される。また、1975年発表のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートでは史上初となる初登場1位を記録した。1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。シングルでは「クロコダイル・ロック」「ベニーとジェッツ」「フィラデルフィア・フリーダム」「アイランド・ガール」の4枚の作品が1位。他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカとの共演「バッド・ブラッド」、ジョン・レノンとの「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」なども全米1位に輝いた。1974年にはケン・ラッセルが監督を務めた映画『トミー』(1975年公開)にピンボールのチャンプ役で出演した[注 3][14]。彼が歌った「ピンボールの魔術師[注 4][15]は全英シングルチャートで7位に達して、彼にとっては8作目になるトップ10ヒットとなった。また『ソウル・トレイン』にも出演した[16]。エルトンの他にソウル・トレインに出演した白人には、デヴィッド・ボウイとジノ・ヴァネリらがいる。インディアナポリス子供博物館の永久コレクションに1970年代からエルトンジョンのステージの帽子とマスク。

1976年発表のキキ・ディーとの「恋のデュエット」は、自身初の全英シングルチャート1位となっている。ハイペースでのレコード発表と並行して、極めてワーカホリックだったスケジュールでのステージ活動はジョンの精神や肉体に支障を来した。『キャプテン・ファンタスティック』の発売後に彼はオルソンとマレーを解雇し、バックバンドの布陣を変えて音楽活動に臨むが、そのような経緯で発売された『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも、評論家からは批判されてしまう。

こういったプレッシャーから彼の心に迷いが生じたのか、アルバム『蒼い肖像』を発売すると引退を表明して、音楽活動を休止する。なお、これを境に、パートナーシップを築き上げてきたトーピンや、バックバンドとの関係も一時的に解消している。ローリング・ストーン誌で、両性愛者であることを公表したのも、同時期である。

約2年の活動休止期間を経て復帰したジョンは、1978年にアルバム『シングル・マン』を発表する。スタッフの面子を一新して制作されたこのアルバムでは、これまで全ての楽曲の作詞を手がけてきたトーピンに代わり、ゲイリー・オズボーンが新たな作詞家として起用されている。その後フィリー・ソウルの大御所、トム・ベルと共にアルバム1枚分の作品を制作するが、結果的にジョン自身の意向によってアルバムはお蔵入りとなり、一部楽曲が12インチシングルで発売されるのみとなった(後年になって全てリリースされている)。この時期、トム・ロビンソンとの恋愛がメディアで報道された。1979年にはピート・ベロッティをプロデューサーに迎え、楽曲もベロッティが手がけた異色作『恋に捧げて?ヴィクティム・オブ・ラヴ』をリリースするが、作風は評論家には受け入れられず、セールスも芳しくなかった。一方で同年にはライブ活動を再開し、当時のソ連では初の西側ロックミュージシャンによるライブとなるモスクワ公演を行って話題となった。
1980年代

その後、ジョンはオズボーン以外にトム・ロビンソンなどを作詞家として迎え入れているものの、結果的に解消していたトーピンとの作曲コンビは、1980年のアルバム『21 at 33』を境に復活。1983年以降は、再び彼が大半の楽曲の作詞を手がけるようになっている。1981年以降は、クリス・トーマスが主にアルバムのプロデュースに携わった。


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