エリザベス2世
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関係する団体は、イギリス本国だけではなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦王国構成国をはじめ世界16か国にまたがり、2016年8月時点で648団体にのぼった[6]

2016年10月13日にはラーマ9世タイ王国国王)の崩御により、2022年4月21日時点(96歳)、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。

2022年6月13日には在位期間が70年と127日となり、タイのラーマ9世前国王(在位:1946年-2016年)の記録を抜き、フランス国王ルイ14世(在位:1643年-1715年)に次ぐ世界史上第2位の長期在位君主となった。

2022年9月8日15時10分(BST)、静養先のスコットランドバルモラル城で老衰により崩御[7]。96歳と140日没、在位期間は70年と214日で、イギリス史上最高齢かつ最長在位の君主であった。
来歴
生い立ち1926年5月29日洗礼式代父母達との記念撮影
後列左から:コノート公アーサー、父方祖父ジョージ5世、父ヨーク公アルバート、母方祖父ストラスモア伯
前列左から:エルフィンストーン男爵夫人(英語版)、父方祖母メアリー王妃、母エリザベスに抱かれたエリザベス王女、母方祖母ストラスモア伯夫人メアリー王女

国王ジョージ5世と王妃メアリーの次男ヨーク公アルバート王子(後の国王ジョージ6世)は、妹メアリー王女の結婚式で花嫁介添人(英語版)を務めたエリザベススコットランド貴族の第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの末女)と、1923年4月26日ウェストミンスター寺院で結婚した。ヨーク公アルバートは、1925年に開催された大英帝国博覧会(英語版)の総裁を務め、この頃、妃エリザベスの懐妊が判明した[8]

1926年4月21日午前2時40分(BST)、ロンドン市内のメイフェア地区ブルートン・ストリート(英語版)17番地に所在する母方の祖父の家において、ヨーク公夫妻の間に、第一子・長女として誕生する。出産は帝王切開であった[要出典]。

4月27日、ヨーク公夫妻は、母エリザベス妃、祖母メアリー王妃、そして1925年11月に崩御したばかりの曾祖母アレクサンドラ王妃から名を取って「エリザベス・アレクサンドラ・メアリー (Elizabeth Alexandra Mary)」と命名した[8][9]。家族からはリリベット(Lilibet)の愛称で呼ばれていた[10]。5月29日に、バッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルで、ヨーク大主教のコズモ・ラング(英語版)によって洗礼が施された。

祖父ジョージ5世は、初の内孫であるエリザベスを溺愛しており、1929年に自身が大病を患った際も、「彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病気の回復を早めるのに一役買った」と言われている[11]

1930年、4歳の時に、妹マーガレットが誕生した。ヨーク公爵一家は、ウィンザー城近傍のロイヤル・ロッジ(英語版)で生活した。

当時は、「結婚(将来)が保証される上流階級の女子には、教育は不必要」という慣習のある時代であった。しかし祖母メアリー王妃の方針により、姉妹揃って宮廷内で教育を施された[12][13]家庭教師マリオン・クロフォード(英語版)(愛称:クロフィ)は、当時23歳で、はじめ母エリザベス妃の姉ローズ(英語版)の婚家であるグランヴィル伯爵家に雇われる予定だったが、ヨーク公爵家に変更された[14]。クロフィは、エリザベスの結婚まで17年にわたって仕えた[14]

クロフィの回想録(『The Little Princesses』[15])によれば、「エリザベス王女は、この頃からなどの動物好きで、規律正しく責任感の強い性格であった」とある[16]。また後に彼女の治世となって最初の首相となるウィンストン・チャーチルも、当時2歳だったエリザベス王女に接して「子供ながら、驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している[17]

出生時における正式な称号は、Her Royal Highness Princess Elizabeth of York(エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下)であり、伯父の王太子エドワード、父のヨーク公アルバートに次いで、第3位の王位継承順位にあった。エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ壮年かつ独身だった王太子のエドワードへの王位継承が期待されており、国王の次男の長女である彼女の即位を予想する者はいなかった[18]。しかし、放蕩な長男エドワード王子について、ジョージ5世は次第に次男アルバート王子とその娘エリザベスへの継承に期待するようになった[19]。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

米誌『タイム』1929年4月29日号表紙「プリンセス・リリベット」

『ヨーク公女エリザベス王女』(1933年、フィリップ・ド・ラースロー画)

祖父の崩御、伯父の退位と父の即位

1936年1月20日サンドリンガム・ハウスにおいて、祖父ジョージ5世が崩御した。エドワード王子がエドワード8世として即位する。

エリザベス王女も、妹マーガレット王女と共に正装安置されたジョージ5世の亡骸を見、その際、棺の傍らにいた父やおじ達の中でも、伯父エドワード8世の姿が印象に残ったことをクロフィに話した[20]

しかしエドワード8世は、イギリスと対立しつつあった枢軸国、とりわけナチス・ドイツに親近感があるような態度をとり、離婚経験を有するアメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかした。エドワードとウォリスの関係は広く知られるものではなかったが、即位以来、エドワードはウォリスを伴ってヨーク公の元を訪問するようになった[21]。母エリザベスは、クロフィに王女たちを二人から遠ざけるよう指示した[22]

12月1日に、紳士協定が切れ、マスコミが一斉に国王とウォリスの関係を報じて世論が騒然となる中、スタンリー・ボールドウィン首相らが彼に退位を迫り、同月11日に退位する(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)[22]。これにより、エリザベスの父である王位継承順位第1位のヨーク公アルバート王子がジョージ6世としてイギリス新国王に即位した。

クロフィから事情を聞いたエリザベス王女は泣き崩れ、10歳で推定相続人となった[22]1701年王位継承法により男子優先長子相続制であった[注釈 2]この時点で、もしもエリザベス王女に弟が存在していたならば、その弟が王太子即ち次期国王となるため、彼女は推定相続人として女王に即位することを逃していた[23]。なお、即位時点で父のジョージ6世は40歳、母のエリザベス王妃は36歳であった。

なお、君主の長女に与えられるプリンセス・ロイヤルの称号は、保有者である叔母のヘアウッド伯爵夫人メアリー王女が存命だったため、授けられなかった。
推定相続人としての歩み

父の即位を受けて、イギリス国王の長女(第1子)で王位継承権者第1位となったエリザベス王女は国王・王妃となった両親と妹のマーガレット王女と一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、Her Royal Highness The Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる[24]

ジョージ6世の戴冠式(英語版)は、もともとエドワード8世のために準備されていた日程通りの1937年5月12日に行われ、エリザベス王女とマーガレット王女は16世紀のアン王妃の墓の上に設えられた特別席から、祖母のメアリー王太后や叔母プリンセス・ロイヤルメアリー王女と共に参列した[25]

1938年にエリザベス王女は初めて舞踏会に出席し、娘の気品を誇りに思うジョージ6世の意向もあって、以降、園遊会をはじめとする公務にも出席するようになった[26]。1939年4月に13歳となり、市井の中学生と同年代になったエリザベス王女は、次期イギリス女王への帝王学教育の一環として、教育者のヘンリー・マーチン(英語版)からイギリス国制史を学び始めた。

1939年7月22日、国王一家がダートマス海軍兵学校を視察した際、急遽、接待役を務めた士官候補生がのちにエリザベスの結婚相手となるギリシャおよびデンマーク王子のフィリッポス(フィリップ)であった[27]。翌日の国王の昼食会に招待された候補生の一人となり、さらには王室ヨットに手漕ぎボートで追随し、ジョージ6世から呆れられるほど最後まで見送って、エリザベス王女に強い印象を残した[28]。なお、これ以前にも1934年1937年の二度にわたり面会している[29]

国立海洋博物館(英語版)の開館行事にて(1937年撮影)

1939年撮影、祖母メアリー王太后(左)、妹マーガレット王女(中央)と共に。

第二次世界大戦1943年撮影(17歳頃)1944年5月17日、D-デイ直後に、グレナディア連隊第5近衛機甲旅団)から儀仗礼を受ける(イングランド南東部ホヴ)。1945年5月8日、バッキンガム宮殿のバルコニーに立つジョージ6世国王一家とチャーチル首相(左端が軍装のエリザベス王女)。


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