1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼少である異母弟のエドワード6世が即位した。母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアはサマセット公爵に叙され保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のトマス・シーモアはスードリーのシーモア男爵に叙され海軍卿になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる[34]。
ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており[35]、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ[36]、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたり[37]といった性的な悪戯に興じていた。キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していた[38]が、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり[注釈 10]、1548年5月にエリザベスは追い出されチェシャントにあるアンソニー・デニー(英語版)(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った[39]。歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる[35]。
シーモアは王室支配のための企てを続けていた[40][注釈 11]。 同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した[42]。彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり[43]、1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはケイト・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている[44]。ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト(英語版)卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪という心証を得た」と報告している[43]。同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。
1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した[注釈 12]。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する[46]。