1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した[注釈 12]。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する[46]。
メアリー1世の治世メアリー1世。アントニス・モル画、 1554年
1553年7月6日、エドワード6世は15歳で崩御した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され[47]、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された[注釈 13]。エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ[注釈 14]。
見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世[50]はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。これにはエリザベスも含まれており、彼女は表面上はこれに従った[51]。メアリー1世が神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰えた[52][53]。
国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。そして、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生する(ワイアットの乱)[54]。
反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、3月18日にロンドン塔に収監された。恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えている[55]。エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てた可能性は低いが、彼らの一部が彼女に近づいたことは事実である[56]。メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナールはエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官スティーブン・ガーディナーはエリザベスを裁判にかけるべく動いた[57]。ウィリアム・パジェット(英語版)を含む宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストック・ベディングフェルド(英語版)へ移され、ヘンリー・ベディングフェルド(英語版)の監視下でおよそ1年間、幽閉状態に置かれた。移送される彼女に対して群衆が声援を送っている[58][注釈 15]。
1554年7月10日、メアリー1世はフェリペと結婚した。メアリー1世は異端排斥法を復活してプロテスタントに対する過酷な弾圧を行い、彼女は「血まみれのメアリー」 (Bloody Mary) と呼ばれた[60][61]。ハットフィールド・ハウス。1558年11月に、この城館でエリザベスは姉の死を知らされる。
1555年4月17日、エリザベスはメアリー1世の出産に立ち会うために宮廷に召喚された。もしも、メアリー1世と彼女の子が死ねば、エリザベスは女王となる。一方で、もしも、メアリー1世が健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる[58]。結局、メアリー1世が妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった[62]。