エリザベス1世
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アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、エリザベスが満2歳であった1536年5月19日斬首刑に処された[18][19]

この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された[注釈 5]。 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが[注釈 6]、彼女は王子エドワードを生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣 (chrisom) または洗礼衣を捧持している[22]

その後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年キャサリン・パーを王妃に迎えた。同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三継承法が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された[23]。キャサリン・パーとエリザベスは親密になり[24]1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』 (The Miroir or Glasse of the Synneful Soul) を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという[25][26]

エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン(英語版)夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りの(どの子供よりも[注釈 7])すこやかに成長されている」と書き記している[28]1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人(英語版)に養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている[注釈 8]。キャサリン・シャンパーノン(英語版)(結婚後のケイト・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリー(英語版)が女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた[30]。彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語ギリシャ語を学んでいる[注釈 9]。グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカム(英語版)から教育を受けた[32]1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた[33]
エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件トマス・シーモア

1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼少である異母弟のエドワード6世が即位した。母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアはサマセット公爵に叙され保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のトマス・シーモアはスードリーのシーモア男爵に叙され海軍卿になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる[34]

ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており[35]、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ[36]、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたり[37]といった性的な悪戯に興じていた。キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していた[38]が、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり[注釈 10]1548年5月にエリザベスは追い出されチェシャントにあるアンソニー・デニー(英語版)(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った[39]。歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる[35]

シーモアは王室支配のための企てを続けていた[40][注釈 11]。 同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した[42]。彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり[43]1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはケイト・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている[44]ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト(英語版)卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪という心証を得た」と報告している[43]。同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。

1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した[注釈 12]。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する[46]
メアリー1世の治世メアリー1世アントニス・モル画、 1554年

1553年7月6日、エドワード6世は15歳で崩御した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され[47]、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された[注釈 13]。エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ[注釈 14]

見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世[50]はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。


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