エリザベス1世
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キャサリンも当初は二人の関係を黙認どころか積極的に手を貸していた[38]が、あまりに度を越した二人の親密ぶりに我慢がならなくなり[注釈 10]1548年5月にエリザベスは追い出されチェシャントにあるアンソニー・デニー(英語版)(ケイト・アシュリーの義兄)の屋敷に移った[39]。歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる[35]

シーモアは王室支配のための企てを続けていた[40][注釈 11]。 同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱(英語版)で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した[42]。彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり[43]1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはケイト・アシュリーとエリザベスの金庫役 (cofferer) ・トマス・パリー(英語版)への訊問で明らかにされている[44]ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト(英語版)卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪という心証を得た」と報告している[43]。同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。

1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した[注釈 12]。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する[46]
メアリー1世の治世メアリー1世アントニス・モル画、 1554年

1553年7月6日、エドワード6世は15歳で崩御した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され[47]、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された[注釈 13]。エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ[注釈 14]

見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリー1世[50]はエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。これにはエリザベスも含まれており、彼女は表面上はこれに従った[51]。メアリー1世が神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰えた[52][53]

国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリー1世の宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。そして、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生する(ワイアットの乱[54]

反乱が鎮圧されるとエリザベスは宮廷に召喚されて訊問を受け、3月18日ロンドン塔に収監された。恐怖したエリザベスは必死に無実を訴えている[55]。エリザベスが反乱者たちと陰謀を企てた可能性は低いが、彼らの一部が彼女に近づいたことは事実である[56]。メアリー1世の信頼厚いカール5世の大使シモン・ルナールはエリザベスが生きている限り王座は安泰ではないと主張し、大法官スティーブン・ガーディナーはエリザベスを裁判にかけるべく動いた[57]。ウィリアム・パジェット(英語版)を含む宮廷内のエリザベス支持者たちはメアリー1世に対して容疑に対する明確な証拠がないとして、エリザベスを助命するよう説得した。5月22日にエリザベスはロンドン塔からウッドストック・ベディングフェルド(英語版)へ移され、ヘンリー・ベディングフェルド(英語版)の監視下でおよそ1年間、幽閉状態に置かれた。移送される彼女に対して群衆が声援を送っている[58][注釈 15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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