エリザベス1世
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治世の終わりには一連の経済的・軍事的問題によって彼女の人気は衰え、臣下たちは彼女の死に安堵している[7]

エリザベスは政府が弱体で、王権が限定された時代、また近隣諸国の王家ではその王座を脅かす国内問題に直面していた時代におけるカリスマ的な実行者、そして粘り強いサバイバーとして知られる。弟と姉の短期間の治世を経た彼女の44年間の在位は、王国に好ましい安定をもたらし、国民意識を作り出すことになった[2]
生涯
出生から少女期父ヘンリー8世と母アン・ブーリン1546年ごろのエリザベス。ウィリアム・スクロッツ画

イングランド国王ヘンリー8世はテューダー家王位継承を安泰ならしめる嫡出男子の誕生を熱望していた[8]。王妃キャサリン・オブ・アラゴンは6人の子を産んだが5人が死産または夭逝し、成長したのは女子のメアリーだけだった[9]。王妃が男子を産むことはないと見切りをつけたヘンリー8世[10]は愛人アン・ブーリンと結婚するため、王妃との離婚を教皇クレメンス7世に要請したが、教皇はキャサリンの甥であった神聖ローマ皇帝カール5世との国際関係を考慮し、許可を下ろさなかった[11]。ヘンリー8世は己の希望を通すため教皇と断絶、イングランドが「主権をもつ国家(エンパイア)」[12]であることを宣言して、新たにイングランド国教会を樹立した。そして国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。

アンは王妃の通例と異なり、妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している[注釈 4]。アンは1533年9月7日午後3時から4時ごろにグリニッジ宮殿(英語版)で女子を出産し、祖母に当たるエリザベス・オブ・ヨークおよびエリザベス・ハワードにちなんで名づけられた[14]。期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉メアリーの嫡出子としての地位は失われていた[15][16]

エリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人(英語版)そしてドーセット侯爵夫人(英語版)、エクセター侯爵夫人(英語版)が代母となった[17]

エリザベスの誕生後、アンは男子を出産することができなかった。彼女は1534年1536年に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に幽閉された。アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、エリザベスが満2歳であった1536年5月19日斬首刑に処された[18][19]

この時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された[注釈 5]。 アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが[注釈 6]、彼女は王子エドワードを生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワードの邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣 (chrisom) または洗礼衣を捧持している[22]

その後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年キャサリン・パーを王妃に迎えた。同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三継承法が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された[23]。キャサリン・パーとエリザベスは親密になり[24]1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』 (The Miroir or Glasse of the Synneful Soul) を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという[25][26]

エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン(英語版)夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りの(どの子供よりも[注釈 7])すこやかに成長されている」と書き記している[28]1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人(英語版)に養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている[注釈 8]。キャサリン・シャンパーノン(英語版)(結婚後のケイト・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリー(英語版)が女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた[30]。彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語ギリシャ語を学んでいる[注釈 9]。グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカム(英語版)から教育を受けた[32]1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた[33]
エドワード6世の治世とトマス・シーモア事件トマス・シーモア

1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が崩御し、幼少である異母弟のエドワード6世が即位した。母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアはサマセット公爵に叙され保護卿(摂政)となって実権を握り、その弟のトマス・シーモアはスードリーのシーモア男爵に叙され海軍卿になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる[34]

ヘンリー8世最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており[35]、14歳のエリザベスも彼に強く惹かれ[36]、シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたり[37]といった性的な悪戯に興じていた。


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