エリザベス・テイラー
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テイラーは1932年2月27日に二人兄妹の妹として、ロンドン北西部のハムステッド・ガーデン・サバーブにあるウィルウッド通り8番の両親の家で生まれ、エリザベス・ロズモンド・テイラー (Elizabeth Rosemond Taylor) と名付けられた[4][5][6]。父親はフランシス・レン・テイラー (en:Francis Lenn Taylor)(1897年 - 1968年)、母親はサラ・サザーン (en:Sara Sothern) (1895年 - 1994年)で、両親ともにカンザス州アーカンザスシティ出身のアメリカ人だった。テイラーの兄ハワード・テイラーは1929年生まれである[7]。父フランシスは画商で、母サラは舞台女優をしていたが、ニューヨークでフランシスと結婚した1926年に芸能活動から引退している。

テイラー家の親しい友人だったヴィクター・カザレット (en:Victor Cazalet) は、一家に大きな影響を与えた人物で、エリザベスの名付け親となった。ウィンストン・チャーチルの親友でもあったカザレットは裕福な国会議員で、有力な縁故を持つ独身男性だった。カザレットは美術と観劇を深く愛した人物で、テイラー一家にイングランドに永住することを強く勧めた。また、クリスチャン・サイエンスの信者で在家の説教師を務めており、テイラー家とのつながりには宗教的な側面もあった。エリザベスがひどい小児性伝染感染症に罹患し、数週間寝込んだときにエリザベスは「お母さん、ヴィクターを呼んでくれないかしら。一緒にここにいてくれるように頼んで」と懇願している[8](p14)。

伝記作家のアレクサンダー・ウォーカー (en:Alexander Walker) は、エリザベスが27歳のときにユダヤ教に改宗しその生涯を通じてイスラエルを支持していたのは、幼少期の体験が原因ではないかとしている。ウォーカーは、カザレットがユダヤ人の祖国建設の積極的な推進者だったことと、エリザベスの母サラがさまざまな慈善活動に参加しており、その活動のなかにシオニズム資金団体への支援があったことを指摘している。サラはエリザベスがカザレットから受けた影響について次のように振り返っている。ヴィクター(カザレット)は、ベッドに座ってエリザベスを抱きかかえながら神様のことを語って聞かせていました。エリザベスの瞳は彼の顔を食い入るように見つめ、彼の話すあらゆる言葉に聞き入り、信じ、そして理解していったのです[8](p14)。

テイラーは出生国イギリスと両親の出身国アメリカとの二重国籍を持っていた。1965年10月にパリのアメリカ大使館でアメリカ国籍放棄の手続きを行ったが、証明書の「合衆国へのあらゆる義務と忠誠を放棄する」という一文には抹消線が引かれていた。このためアメリカ合衆国国務省は、書類が改竄されているためテイラーの国籍放棄を認めないという見解を公式に公表している。テイラーは翌年の1966年に、改めて正式なアメリカ国籍放棄の証明書にサインした[9]。しかしながら1977年にテイラーは、当時の夫だった政治家ジョン・ウォーナーの上院議員選挙運動の際にアメリカ国籍取得を申請している[10][11]

第二次世界大戦が勃発する直前に、両親は戦火を避けてイギリスからアメリカへと戻ることを決めた。母サラと二人の子供が一足先にニューヨークへ到着したのは1939年4月のことで[12]、ロンドンで仕事の後始末に追われていた父フランシスがアメリカへ帰国したのは11月になってからだった[13]。一家はカリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着き、父フランシスはイギリスから持ち込んだ多くの絵画を展示するアート・ギャラリーを建てた。そしてすぐにこのギャラリーは現代ヨーロッパ絵画を好む多くの著名なハリウッド関係者たちの間で評判になり、伝記作家ウォーカーはギャラリーが「テイラーを金銭と名声に満ちた(ハリウッドの)世界へと誘う、多くの扉を開いていくことになった」としている[8](p27)。
女優としてのキャリア
子役

テイラーの母サラは、ロサンゼルスに居を構えて間もなく、ハリウッド関係者が「つねに未来のスターを探している」ことに気づいた。サラは友人をはじめ見ず知らずの人々からも、当時撮影中だった映画『風と共に去りぬ』の主役スカーレット・オハラの子供ボニー・ブルー役のスクリーン・テストを、テイラーに受けさせるように勧められた。しかしながらサラは、テイラーには映画の子役は向いていないとしてこれらの誘いを断った。また、テイラー一家が世界大戦終結後にはイングランドへ戻るつもりでいたことも背景にあった[8](p28)。1940年ごろに撮影されたテイラー。

あるとき、ハリウッドの芸能コラムニストのヘッダ・ホッパーが、映画製作会社ユニバーサル・ピクチャーズの役員で大株主だったジョン・チーヴァー・カウディンの婚約者アンドレア・ベレンスとテイラーを引き合わせた。ベレンスはサラに、テイラーをカウディンに会わせれば、間違いなくカウディンはテイラーの驚くほどの美貌に魅せられるだろうと請合った[14]。別の映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) もテイラーに関心を示しており、MGMの社長ルイス・B・メイヤー自らが自社のプロデューサーに「彼女(テイラー)と契約しろ。さっさとするんだ。何をぼやぼやしている」と催促したといわれている。そしてテイラーを巡ってユニバーサルとMGMの争奪戦となった。MGMも自分たちと同じくテイラーに興味を持っていることを知ったカウディンは、ニューヨークからユニバーサルへ「彼女と契約するんだ。これは命令だ。スクリーンテストも省いていい」という電話をかけている。そしてユニバーサルはテイラーと7年間の契約を結んだ[8](p31)。

テイラーが初めて映画作品に出演したのは『There's One Born Every Minute』(1942年)で、結局この作品がテイラーが出演した唯一のユニバーサル製作映画となった[15]

『There's One Born Every Minute』公開後、一年足らずでユニバーサルはテイラーとの契約を解消した。契約が解消された理由は不明だが、カウディンが期待するほどの成果をテイラーが挙げられなかったのではないかとする説がある。伝記作家ウォーカーは「ユニバーサルに歓迎されていない」とテイラーが直感的に思ったのだとしている。たとえば、配役担当ディレクターが、スクリーン・テストを終えたテイラーについて「この子には何もないよ」と漏らしたことをテイラーは知っていた。テイラーに出会う人々を驚かせた[16]すみれ色にも見える深い青色の美しい瞳と先天的な二重まつげ[7][17]は,このディレクターにとって印象的には感じられず[18][17]、「彼女(テイラー)の目はあまりに大人びすぎている。子供の顔じゃない」と言ったとされている[8](p32)。ウォーカーも「外見に関する限りはそう的外れな意見でもない」としている。

確かにエリザベスの容姿にはちょっと変なところが「あった」。年齢のわりには大人びており、実年齢よりも年上だと考える人々も多かっただろう。すでに母親と同じような集中力をみせていた。後にこのことは(テイラーの)大きな財産となっている。当時の人々は、シャーリー・テンプルの清純な愛らしさや、ジュディ・ガーランドの飾り気のない子供らしさに比べれば、テイラーが劣っていると思ったのだろう[8](p32)。1944年に撮影されたテイラー。

テイラーは幼少時代をすごしたイングランドでは「大人びて」いると言われていたと振り返っており、それは自身が「率直でひどく遠慮がなかった」からだとしている[19]。さらに生まれたばかりの娘にも、自分とよく似た特徴がみられることにも触れている。

まだ一歳にもならない娘がじっと他の人を見つめると、その人は落ち着きをなくし逃げ出したくなるのです。娘の熱のこもった視線に耐えられずに、遂には部屋を出て行ってしまいます[19]

MGMのプロデューサーであるサム・マルクス (en:Sam Marx) の火災警備員も務めていたテイラーの父フランシスは、MGMが名犬ラッシーの映画に出演するイギリス人子役を探していることを知った。テイラーはこの映画への出演を決め、1943年からの長期契約をMGMと結んだ[20]。テイラーがMGMとの契約を決めた理由は「オーディションに行ったときに、MGMの関係者がみんな親切だったから」とテイラーは振り返っている[8](p32)。MGMの製作責任者ベニー・タウを、テイラーはその後数年にわたって全面的に信頼していた。「彼(タウ)は 細やかな気遣いが出来る人物で、その身振りからも彼女(テイラー)が愛されているということがわかった」とウォーカーは語っている[8](p32)。


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