エリオット・スミス
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6枚目のアルバムを制作中であった2003年10月21日カリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で胸に2箇所の刺し傷を負い、死亡。要因は今も不明。

ローリング・ストーン』誌の2007年11月号の企画、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」において第23位。
経歴
生い立ち

1969年8月6日、エリオット・スミスはネブラスカ州オマハにて医学生の父親と小学校の音楽教師の母親の間に生まれた。およそ1年後に両親は離婚し、スミスは母親に引き取られる。移り住んだテキサス州で幼いスミスは継父チャーリーとの関係に苦しむことになる。当時の彼の苦悩は、後年に書かれた「Some Song」の一節で示唆されている。「チャーリーは来る日も来る日もお前を痛めつける。大人になる頃にはお前はおかしな奴になっている」[注釈 1]

スミスは9歳のときにピアノを、10歳でギターを始める。彼の音楽の才能は早くから発揮されており、自作のピアノ曲で賞をもらったこともあった。14歳のとき、オレゴン州ポートランドの実父のもとに移る。この頃、借り物の4トラックレコーダーで最初のレコーディングを行っている。また、友人の影響でドラッグアルコールに手を出すようになった。高校在学中にはStranger Than Fiction、A Murder of Crows、The Greenhouseというバンドに所属した[注釈 2]

高校卒業後、彼は「エリオット」と名乗るようになる。この名前の由来については諸説ある[注釈 3]がはっきりしない。スミス自身は本名の「スティーヴ」という響きが「ジョックみたいに聞こえる」という理由で気に入っておらず、「スティーヴン」だと「ガリ勉ぽい」と思っていたらしい[6]
ヒートマイザー時代

大学時代に、彼は級友のニール・ガストと共にヒートマイザーを結成する。卒業後、トニー・ラッシュとブランド・ピーターソンが加入し、1992年頃からポートランド周辺で活動を始める。バンドは『Dead Air (1993年)』、『Cop and Speeder (1994年)』、『Yellow No. 5 EP (1994年)』をフロンティア・レコードから、最後のアルバムとなる『Mic City Sons (1996年)』をヴァージンからリリースした。1994年頃からスミスはヒートマイザーと並行してソロ活動を開始したが、彼のソロ・キャリアにおける成功はバンド・メンバーとの間に緊張を生じさせた。結局、ヒートマイザーは『Mic City Sons』の完成後、そのリリースを待たずして解散する。のちにスミスはヒートマイザー時代を振り返って「僕の書いた曲をロックのテーマソングみたいにされてしまうのはうんざりだった」と語る一方で、それにもかかわらずバンドを辞めなかったのは友人であるニール・ガストのためだったと述べている[7]
アルバム『ローマン・キャンドル』

最初のソロ・アルバム『ローマン・キャンドル』は、当時のガールフレンドの勧めで「アコースティックギターと借り物の4トラックで録音した8曲」の音源をCavity Search Recordsに送ったことがきっかけとなった。これを聴いたレーベルのオーナーはすぐにフル・アルバムとしてのリリースを持ちかけ、ミニ・アルバムでの契約を予想していたスミスを驚かせた。

「当時の北西部はマッドハニーニルヴァーナが全盛で、そんな中でアコースティックのショウをやるなんて思いつかなかったよ。まるで処刑されるためにのこのこ這いつくばって出ていくようなものだろ」。

スミスのソロ・デビュー・ライブは、1994年9月17日にUmbra Penumbraで行われた[注釈 4]。その後、メアリー・ルー・ロードの前座を依頼され、1週間ほどのアメリカ・ツアーに帯同した。何度かの短いツアーの後、スミスは「I Figured You Out」[注釈 5]をメアリー・ルー・ロードに提供し、レコーディングにも参加した。
アルバム『エリオット・スミス』と『イーザー / オア』

1995年、アルバム『エリオット・スミス』をKill Rock Starsからリリース。セルフタイトルであるが、スミス本人は同作を「名前のないアルバム」と表現していた。大部分はスミスが一人でレコーディングしたが、旧友のニール・ガストが「Single File」の、ザ・スピネインズのレベッカ・ゲイツが「St. Ides Heaven」の演奏に参加した。前作の作風を踏襲しつつ、さらに発展させた内容となっている。ドラッグとアルコール中毒を想起させる曲が多いが、スミスによればそれは表面的な解釈にすぎないという。後年、スミスはこのアルバムによって彼自身が「本当に暗くて落ち込んだ人間」だというイメージを世間に与えてしまったと振り返り、その後は意識して違った雰囲気の曲も書くようにしたと語っている。ニューヨーク 1997年

1996年、ジェム・コーエンがスミスにフォーカスをあてたショートフィルム『Lucky Three』を撮影。この中で披露された2曲は、1997年にKill Rock Starsからリリースされたサード・アルバム『イーザー / オア』に収録された。このアルバムではベースドラムキーボードエレクトリックギターなど、前作と比べて多種多様な楽器が用いられた。なお、すべての楽器をスミス自身が演奏している。アルバムのタイトルはデンマーク哲学者キェルケゴールの同名の著書(「あれか、これか」: 実存的な絶望、恐怖、死、および神といったテーマを扱っている )から名付けられた。前作から一転、暖かみを増した本作はインディーズ時代の代表作とされている。この時期、スミスはすでに重度の飲酒癖を抱えていたが、それに加えて抗うつ薬を服用するようになる。また、ポートランドを離れ、ブルックリンに引っ越している。
「Miss Misery」とアカデミー賞

1996年、スミスは映画監督ガス・ヴァン・サントから彼の映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』のサウンドトラックの依頼を受け、書き下ろしの新曲「Miss Misery」、オーケストラバージョンの「Between The Bars」およびリリース済みの3曲を提供した。1997年に公開された映画は成功をおさめ、スミスの「Miss Misery」も翌年のアカデミー歌曲賞にノミネートされた。

1998年、アカデミー賞会場でスミスは白いスーツを着て短縮版の「Miss Misery」をオーケストラをバックに演奏した。結局、セリーヌ・ディオンが歌った、映画『タイタニック』の主題歌「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」が受賞したが、スミスからは落胆した様子はうかがえなかった。後に彼はアカデミー賞での演奏をこう振り返っている。

「すごくシュールな体験だった。僕は作曲することと同じくらいライブも好きなんだけど、アカデミー賞での演奏は本当に不思議だった。曲は2分以下にカットされたし、そこにいた観客のほとんどは僕の演奏を聴きにきたわけじゃなかった。こんな世界に僕は住みたいとは思わない。でも1日だけなら月の上を歩いてみるのも悪くなかったよ」。
アルバム『XO』と『フィギュア8』

1998年、スミスはメジャーレーベルのDreamWorks Recordsに移籍する。インディーズからのステップアップを果たす一方で、当時の彼は深刻なうつ病を患っており、周囲に自殺願望を口にするようになっていた。実際に少なくとも一度、本気で自殺を試みている。ノースカロライナに滞在中のある日、酩酊状態になったスミスは崖から飛び降りた。彼は木の上に落下し、枝が彼の体を貫いたが、結果的にそれが自殺を阻止した形となった。後のインタビューでこの事件について聞かれた彼はこう答えた。

「そう、崖から飛び降りたのは本当だよ。だけど、その話題はやめようよ」。

Cavity Search Records幹部のクリストファー・クーパーは当時の様子をこう振り返っている。「彼がポートランドにいた頃、私は何度も彼に自殺を思いとどまらせた。彼は才能ある人間で生きる価値があるということ、そしてみんなが彼を愛しているということを繰り返し伝えたんだ」。

DreamWorksでの最初のアルバムとなる『XO (エックス・オー)』はロブ・シュナフとトム・ロスロックによってプロデュースされ、1998年にリリースされた[注釈 6]。本作ではホーンセクションチェンバリンストリングスなどを用いた多様なアレンジに挑戦する一方で、従来のコーラスを重ねたアコースティックな曲も収録されている。アカデミー賞ノミネートの前評判もあり、結果的にこのアルバムが彼のキャリアでもっとも売れた作品となった[注釈 7]


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