エミール・シオラン
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第一次世界大戦中は、両親がハンガリー当局によってハンガリーの他の街(父はショプロン、母はコロジュヴァール(クルジュ=ナポカ)に強制的に収容されていたので[3]、その間シオランは両親不在のまま祖母や姉弟とともに故郷で自由に過ごした[4]。「空と大地は文字どおり私のものだったし、心配事でさえ喜ばしいものだった。私は――万物の「主」として目を覚まし、床に就いたものだった。自分が幸せであることは知っていたが、それがやがて失われることも予感していた」[5]

1921年、10歳になったシオランは、リセ(ギョルゲ・ラザル校)に通うためにすぐ近くの街シビウに転居する[6]。この故郷との離別を彼は「楽園は終わってしまった」と表現している[7]。第一次世界大戦の結果1918年以来ルーマニア領となっていたシビウでは、トランシルヴァニア・ザクセン人の住居に下宿し、ドイツ語を習得した[8]1924年、父エミリアンがシビウの長司祭に任命されると、家族とともにシビウに住んだ[9]。シビウのルーマニア語図書館とドイツ語図書館に通い、哲学や文学の読書に熱中した[10]

1928年、ブカレスト大学の文学部に入学する[11]。読書への熱中は続き、「いままで考えられてきたあらゆることを知る」、「すべての観念を知り、すべての本を読む」という熱狂に取りつかれていた[12]。ただし、ブカレストでの最初の年は若きシオランにとって簡単ではなかった。彼は地方出身で、友人もおらず、孤独に過ごした[13]。ドイツ文化が色濃く、あこがれの首都といえばウィーンだったトランシルヴァニア出身の若者にとって[14]、フランス文化の威信が強い首都ブカレストは異質だった。その例の一つとして、当時のシオランはフランス語があまり喋れなかったが、ブカレストの知識人や学生は流暢にフランス語を身につけていて、劣等コンプレックスを抱いたという[15]。そのこともあってか、彼は大学の講義にほとんど出席せず、隠れるように図書館に通い、一日の大半をそこで過ごした[16]

ブカレスト大学に学び、そこで1932年ウジェーヌ・イヨネスコミルチャ・エリアーデと出会い、終生の友人となる。また、彼はルーマニアの「著作を持たない」思想家ペトレ・ツツェアとも長きにわたり親交を深めた。1934年、処女作『絶望のきわみで』が出版される。イヨネスコの『否(Nu)』とともにカロル2世王立財団出版から出版されたこの著作は好意的に迎えられ、委員会から賞も授与され知識人としてのデビューを飾った。

彼はメンバーにこそならなかったが、ルーマニアファシズム運動である鉄衛団にも関わり、その機関誌に多くの政治論文を寄せている。シオランは鉄衛団の暴力的手法には賛同してはいなかったとされるものの第二次世界大戦の初期まで支持していた。彼は後に、この運動に対する共感と民族主義、反ユダヤ主義を捨て去り、それに傾倒した若年期の態度に対して、しばしば後悔、良心の呵責の念を表した。

批評家の中には、戦間期のルーマニアの民族主義運動への政治思想的参加に対する彼の自責の念が後の作品を特徴付ける悲観主義の源となったと見る者もいる。また、その悲観主義は彼の幼年期の出来事に遡っていると見る者もいる。1935年頃に、彼がそんなに不幸になるのだと「もし知っていたら、堕胎していたのに」と母親に言われたと伝えられている。

シオランの母親が堕胎の話をした際それは彼を妨げるものとはならなかったが、人間存在本性についての洞察を導く契機となる強烈な印象と喜びを彼にもたらした。「私の存在は偶然に過ぎない。なぜそんなに全てを深刻にとらえるのか?」と、全てのものに実体などないのだと警告しつつ彼はその事件を振り返って後に述べた。

1937年、ブカレストにあるフランス研究機関から奨学金を得てパリに行く。


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