エミリア=ロマーニャ州
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トスカーナ州を跨ぐ地域にはアペニン山脈がそびえ、一帯は2015年にユネスコ生物圏保護区に指定された[7]
主要な都市

人口10万人以上のコムーネは以下の通り。人口は2012年1月1日現在[2]

ボローニャ (ボローニャ県) - 371,151人

モデナ (モデナ県) - 179,095人

パルマ (パルマ県) - 175,842人

レッジョ・エミリア (レッジョ・エミリア県) - 162,570人

ラヴェンナ (ラヴェンナ県) - 153,458人

リミニ (リミニ県) - 139,727人

フェラーラ (フェラーラ県) - 132,295人

フォルリ (フォルリ=チェゼーナ県) - 116,363人

ピアチェンツァ (ピアチェンツァ県) - 100,195人
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ボローニャ

パルマ

モデナ

レッジョ・エミリア

ラヴェンナ

歴史
古代.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前6世紀にかけポー平原に進出した。紀元前5世紀にケルト人(ガリア人)がイタリア北部に進入した。白文字で名が描かれているのがケルト系諸部族(緑地がおおむねの領域)。共和政ローマの勢力拡大。ローマは紀元前3世紀後半にポー平原に進出した。帝政期北イタリアの行政区と街道。アエミリア街道(赤)を中心に第8行政区「アエミリア」が置かれた。

ローマ時代以前、この地はエトルリア人ガリア人ボイイ族など)の領域の一部であった。現在のボローニャ(エトルリア人の都市でフェルシナと呼ばれた)や、ラヴェンナ(アドリア海沿いにあった潟湖上に築かれた)などは、ローマ以前に起源を有する都市である。ローマ人はガリア人が暮らす北部イタリアを「ガリア」と呼び、ポー川(ラテン語ではパドゥス川(Padus))の南側の地域を「ポー川の手前のガリア」を意味する「ガリア・キスパダナ」(Gallia Cispadana)と呼んだ。

紀元前3世紀以降、ローマ人(共和政ローマ)はこの地域に進出し、紀元前268年にアドリア海沿岸にアリミヌム(現在のリミニ)を建設。ポー平原に勢力を広げ、紀元前218年ポー川河畔に兵営都市プラケンティア(現在のピアチェンツァ)を建設した。

ローマからアリミヌムまではフラミニア街道が紀元前220年に開通した。紀元前187年、アリミヌムとプラケンティアとを結ぶアエミリア街道(エミリア街道、Via Amilia)が完成し、ローマとポー平原が結ばれることとなった。アエミリア街道沿いには、ボノニア(現在のボローニャ、紀元前189年建設)、ムティナ(現在のモデナ、紀元前183年建設)、レギウム(現在のレッジョ・エミリア、紀元前183年建設)、パルマ(紀元前183年建設)などの都市が建設された。

ローマ人は、現在の北イタリア一帯に属州ガリアガリア・キサルピナ)を置いた。属州と本土との境界は、アドリア海側ではラヴェンナリミニの中間を流れているルビコン川(現在のルビコーネ川、フォルリ=チェゼーナ県東部)であった。ユリウス・カエサル紀元前58年にガリア総督として赴任し、ガリア人とのガリア戦争を戦い、紀元前49年に著名なルビコン渡河を行っている(ローマ内戦)。

オクタウィウス(のちのアウグストゥス)は、紀元前42年頃にこの地域をイタリア本土に編入し、第8行政区「アエミリア」(Regio VIII Aemilia)あるいは「キスパダナ」(Cispadana)を置いた。「アエミリア」の領域は、おおむね現在のエミリア=ロマーニャ州の州域と重なる。
中世・近世
中世前期

キリスト教が広まると、この地域に多くの修道院が建設された。これにより、文化的・宗教的な繁栄がもたらされた。

402年西ローマ帝国ホノリウス帝はラウェンナに都を移している。西ローマ帝国滅亡後、ラウェンナは東ゴート王国の首都となった。540年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はラウェンナを占領(ゴート戦争)。以後、東ローマ帝国はイタリア北部をラウェンナ総督領として約250年間支配した。ラヴェンナに5世紀初頭から6世紀末にかけて建設されたキリスト教建築物は「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として世界遺産に登録されている。

一方で6世紀半ばにはランゴバルド人がポー平原に侵入してランゴバルド王国を建国し、東ローマ帝国と争った。751年、最後のラウェンナ総督はランゴバルド人との戦いで戦死する。756年フランク王国ピピン3世はランゴバルド王国からラウェンナ地方を奪い、この地を教皇に献上した(ピピンの寄進)。
中世盛期からルネサンス期

中世のこの地域は、政治的には不安定であった。レッジョ・エミリアに近いカノッサ(現在はレッジョ・エミリア県に属する)から出たカノッサ家は、現在の州域西部を中心として南はトスカーナから北はロンバルディアに至る地域を支配する北イタリアの大領主に成長するが、1115年にマティルデ・ディ・カノッサ(1077年の「カノッサの屈辱」の当事者として知られる)が没すると、遺領には自立的な都市国家(コムーネ)群があらわれ、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立を背景に都市間・都市内部で抗争を繰り広げた(教皇派と皇帝派)。

相互・内部の抗争に疲弊し、大国の圧迫を受けた中小規模の都市国家では、13世紀後半から14世紀前半にかけて一人の有力者に権力を集中させることで危機を打開することが図られ、事実上の君主制であるシニョリーア制が立てられた[8]。世襲化した著名なシニョーリ(僭主)としてはフェラーラエステ家リミニマラテスタ家などが挙げられる。これらのシニョーリアは、教皇国家ヴェネツィア共和国ミラノ公国ヴィスコンティ家、のちスフォルツァ家)などの諸国も交えた争いが行われた。


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