エマ・ゴールドマン(英: Emma Goldman, 1869年6月27日 - 1940年5月14日)とは、リトアニア生まれで、アメリカで活動したアナキストでありフェミニスト。 ラディカルな解放思想やフェミニズムによる著作、発言などで知られる。15歳で姉とともにアメリカに渡った。後にロシア革命期の見聞を語ることになる。またイギリス滞在歴も長く、後年にはイギリスで自伝を執筆している。日本のフェミニスト、とりわけ伊藤野枝に大きな影響を与えた。 リトアニアのカウナスでユダヤ系の家庭に生まれる。暗殺が起こるなどの政情不安から、13歳のときに一家はペテルブルクに移住した[1]。経済的事情で学校にも行けずに働くことになった。「女に学問はいらない」と説いて早く結婚させようとする父と対立することになる[2]。 1886年、15歳になったエマは姉とともにアメリカへ移民し、縫製工場で女工として働く[3]。1886年5月1日、シカゴのヘイマーケット事件(英:Haymarket Riot)から刺激を受け、またこのころアナキストグループとも出会う。1889年、20歳にしてすでに革命家としてアナキストの自覚を持ち、ニューヨークに拠点を移して各地で演説をこなすようになる。1892年7月23日、エマは恋人であり、終生の友であるリトアニア生まれのアレクサンダー・バークマン[4]と共に、コークス会社の工場長でスト破りを繰り返していたヘンリー・クレイ・フリック 1916年2月11日、産児制限運動によって投獄され[8][9]、さらに翌年には反戦活動のため2年の刑に処せられた[10]。
概要
来歴
『母なる大地』に掲載された論文のうち『婦人解放の悲劇』が掲載された号をたまたま入手した伊藤野枝は、この論文に目を止め、大きな影響を受けた。伊藤はこれを翻訳し、1914年に日本で出版されている。
またエマは1910年にニューヨークで幸徳事件(大逆事件)に対する抗議集会を開いて日本政府や外交関係者を狼狽させた。
11月12日 エマら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛抗議文を送付
11月22日 ニューヨークで最初の抗議集会
12月12日 ニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択