エマニュエル・マクロン
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地元のイエズス会系私立校リセ・ラ・プロヴィダンス(Lycee la Providence a Amiens[注釈 2])在学中の1994年にコンクール・ジェネラル(フランス語)を受賞する。アミアン音楽学校ではピアノの学位を取得した。その後、現在の妻であるブリジット・オジエールとの関係からリセ最後の1年をパリ5区の公立校アンリ4世校(リセ・アンリ=キャトル、Lycee Henri-W)で学ぶ。理系バカロレアに合格後、そのまま同校グランゼコール準備級(CPGE)に進学。哲学を志してパリ高等師範学校を志望するも筆記試験に2度失敗する[8]

1998年、パリ政治学院(シアンスポ)に入学した。専攻を国際部門から公務部門に切り替え、2001年に卒業。同時にパリ第10大学(パリ=ナンテール大学)に入学し、ヘーゲルマキャベリ政治哲学に関する論文で修士号とDEA(学位)を取得した(グランゼコールと大学の並行履修はよくある)。この時期には、1999年から2000年にかけて歴史学教授フランソワ・ドッスの紹介で哲学の名誉教授ポール・リクールの著作執筆の編集助手を務め、リクールは大著『記憶、歴史、忘却』(2000年)の序言にマクロンへの謝辞を記した[9]。その後、フランスにおける官僚養成のエリートコースに従い、国立行政学院(ENA、エナ)に進んで修了した。
財政監査官仏国立行政学院(Ecole nationale d'administration)

2004年に国立行政学院(ENA)を卒業したマクロンは、経済・財務省の中心機関であるアンスペクション・ジェネラル・デ・フィナンス(フランス語版)(IGF)の財務監査官(財政監査官)に就任する[10]。マクロンは同機関の当時のトップを務めたジャン=ピエール・ジュイエから指導を受けた。 また在任中にエリート校で私立CPGEであるIPESUPの「prep'ENA」(ENA入学試験のための特別塾)で夏季レクチャーを行った[11][12]

2007年8月、ジャック・アタリの「フランス成長解放委員会」の報道官に任命された[13]。2008年12月に5万ユーロを支払って政府との契約を解くと投資銀行家に転じ、ロスチャイルド&Cie銀行に高額給与を約束される[14]。2010年3月にアタリ委員会の一員に任命された[15]
投資銀行家

2008年9月、マクロンは監査官を辞めロスチャイルド&Cie銀行(英語)に勤めた。ニコラ・サルコジが大統領に選出されたために政府関係の職から離れたといわれる。同行での最初の仕事はCreditMutuel Nord Europe(北欧信用保証協会)の消費者金融会社コフィディス買収支援だった[16]

マクロンは『ル・モンド』紙の監督委員を務める実業家アラン・マンク(英語版)と関係を結んだ[17]。2010年、マクロンは同紙の資本増強とアトス社によるシーメンスITソリューション&サービスの買収に関わった後、ロスチャイルド&Cie銀行と提携するようマンクに促した。同年、マクロンはマネージングディレクターに任命され、ネスレを支援しファイザーから乳幼児飲料系の最大子会社を買収した。この取引は総額90億ユーロにのぼり、分担金を得たマクロンは億万長者となった[18]

マクロンは2010年12月から2012年5月の間に200万ユーロを稼いだと述べた[19][リンク切れ][20]。公式文書によれば2009年から2013年の間にマクロンの収入はおよそ300万ユーロにのぼるとされる[要出典]。
オランド政権
経済相

2012年5月から大統領府副事務総長としてフランス大統領オランドの側近を務めるようになる。

2014年8月、ドイツ主導の緊縮財政政策を批判して更迭されたアルノー・モントブール(フランス語版)の後を引き継ぎ、第2次マニュエル・ヴァルス内閣の経済・産業・デジタル大臣に就任した[21]。1962年1月就任のヴァレリー・ジスカール・デスタン以来、最年少の大臣登用であった。前職のモントブールがユーロ懐疑派で左翼であったのに対し、マクロンは親EU(欧州連合)であり、メディアはマクロンを「アンチ・モントブール」と称し、大臣職として実業家の目線から改革推進の最前線に立った。

マクロンはフランスを代表する自動車メーカーであるルノーの自社持ち株比率を15パーセントから20パーセントに引き上げたのちにフロランジュ法(the Florange law )を施行、2年以上の長期株主に対して二重議決権を付与し3分の2の株主が反対表明をしない限り、覆せないと決めた[22][23]。これはフランス国家の少数株を意味するが、のちにマクロンは政府の権限をルノー社内で制限すると述べている[24]

大臣時代にはまた、イゼール県にあるエコポラ工場の閉鎖を防ぐことができないと広く批判された[25][要文献特定詳細情報]。

2015年8月、もはや社会主義党員ではなく、自分は独立していると語った[26]
マクロン法

2014年12月、オランド政権が目指す主要な経済改革政策を盛り込んだ「経済の成長と活性のための法律案」(通称「マクロン法」)を国会に提出する。100条を超えるこの法案では、商店の日曜日営業の規制を年間5回から同12回に緩和することや、長距離バス路線の自由化など多種多様な規制緩和策が提案されたが、多くの反対意見を呼び、与党である社会党からも反発の声が上がった。

2015年2月17日、法案の成立を急いだマニュエル・ヴァルス首相は、年に1度しか行使できない憲法49条3項(英語)の特別処置に訴え、国民議会の票決を経ることなく法案を採択させた[27][28]。同年8月7日に憲法評議会での審議を終えて法案は発効した。
政治運動

2016年4月、「左派右派のあらゆる良き意思を結集」して「左派でも右派でもない政治」を目指すと宣言し、中立の政治団体「アン・マルシュ! (日本語:前進!、フランス語: En Marche !)」を結成した[29]。2017年6月、党は「共和国前進!」(LREM)へと改称した。

大統領選挙への出馬が噂される中、同年8月30日に経済相を辞任した[30]。その理由については「フランスの景気低迷や社会的な格差拡大に対し、独自の解決策を打ち出せるようにするためだ」と説明[31]。苦境に陥ったフランスに「変革」をもたらすという決意を述べたものの、取り沙汰されていた次期大統領選への出馬を表明するには至らなかった[32]。しかし、経済界からも厚い支持を集める左派閣僚として注目され[33]、経済相辞任は大統領選出馬を見据えた動きとみなされた[34]


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