1938年、イギリス第7次遠征隊。隊長はビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。 翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われなかった。 1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆に、それまで唯一のルートだったチベット側は中国の支配下に置かれたことで閉鎖された。ネパールの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に、世界各国に門戸が開かれたことを意味していた。
第二次世界大戦から初登頂前まで
1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得たが、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール (Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレバスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8611 mに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならなかった。
初登頂そして条件別初登頂記録1953年に初登頂したエドモンド・ヒラリー(左)とテンジン・ノルゲイ(右)
1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンに一旦決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント (John Hunt) 大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定が覆され、ハントが隊長に代わった。このときのトラブルの心痛から、シプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、2つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰(8749 m)を制したが酸素不足で撤退した。後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第2チームが5月29日午前11時30分に世界初の登頂に成功、同年2月6日のエリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。
1960年5月25日、中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真撮影がなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在ではほぼ認定されている(下記リスト参照)。
1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。
1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて2度エベレストの頂上に立った人物となった(1度目は1963年のアメリカ隊と成功)。
ネパール政府により、外国人による登山が1966年から1968年まで全面禁止となる[20]。
1970年5月11日、日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長・松方三郎、登攀隊長・大塚博美)の松浦輝夫と植村直己が日本人として初めて登頂に成功した[26]。
1973年、イタリア隊のリナルド・カレル、ミルコ・ミヌッツォら5人が登頂しイタリア人として初のエベレスト登頂。実業家グイド・モンジーノが組織したこの隊は、イタリア人隊員は隊長も含め64人、雇用したシェルパも100人にのぼり、ジェット機とヘリコプターで搬入した物資は50トンにおよぶなど単独の登山隊としては最大級の規模であった。
1975年5月16日、田部井淳子が女性として世界で初めて登頂に成功した[27]。11日後の5月27日には中国隊の9人が北東側から登頂し、チベット族女性パンドゥが女性第2登を果たした。 1996年5月10日、8名が死亡する大量遭難死が発生した[28](エヴェレスト大量遭難参照)。同シーズンにさらに4名の遭難があり、1シーズンで12名の死者が出た。 1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8160 m付近でマロリーの遺体を発見した。
1990年代以降