第1次は登頂そのものでなく、登頂のための周辺調査とルート確認を目的として英国を出発。インドのカルカッタに上陸後、ダージリンからチベットを回り込んでエベレストを目指した。チベットのカンパ・ゾンでは、体調がすぐれなかったケラス博士が心臓発作で亡くなるというアクシデントに見舞われたが、遠征隊はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020 m)にいたるルートを確認するとともに、エベレスト周辺の詳細な地図を初めて作成することに成功して帰国した。
参加者
チャールズ・ハワード=ベリー (Charles Howard-Bury
1922年組織・実行。
3度の頂上アタックを行った。7620 mの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8225 m[注 2]という当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8321 mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して7名のシェルパが落命したため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。
参加者
チャールズ・グランヴィル・ブルース准将 - 隊長として宿願であった。
エドワード・リーズル・ストラット (Edward Lisle Strutt) 大佐 - 副隊長。
ジョージ・フィンチ - 前回不参加者。
ハワード・サマヴィル
1924年組織・実行。
2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路でエベレストを目指した。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000 m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。ノートンはサマヴィルとともに酸素ボンベなしで頂上を目指し、途中から一人で北壁をトラバースし標高8572 mに到達、人類の最高到達記録を更新したが引き返した。マロリーは6月8日、22歳の若いアンドリュー・アーヴィン1人を連れて第6キャンプを出発、酸素ボンベを使用して山頂を目指した。2人はこのまま行方不明になり、第3次遠征隊は山を下りた。さらに許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった[23]。
参加者
チャールズ・ブルース准将 - 第2次同様に隊長だったが、ダージリンからエベレストまでの道中でマラリアのため離脱。エベレスト登山はこれが最後となり、1939年に死去した。
ノートン大佐 - 副隊長だったが、ブルース准将の離脱で隊長となった。
マロリー - 経験者。
ジェフリー・ブルース - 経験者。
サマヴィル - 経験者。
ベントリー・ビーサム
1933年、イギリス第4次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ
(Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス (Frank Smythe)、ジャック・ロングランド (Jack Longland)、パーシー・ウィン=ハリス (Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン (Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー、エドワード・シェビア (Edward Shebbeare)、トム・ブロックルバンク (Tom Brocklebank)、1922年隊にも参加したコリン・クロフォード (Colin Crawford) らがおり、のちに遠征隊の隊長を務める歴戦の登山家エリック・シプトンもその中に含まれていた。この遠征では高度8570 mが最高で登頂はできなかったが、ウィン=ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。なお、1933年4月3日、スコットランドの貴族、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラス=ハミルトンが操縦席がむき出しの複葉機(ウエストランド機)に乗り込み、エベレスト山頂の上を飛び越えるとともに史上初めてエベレストの空撮に成功した。
1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン (Maurice Wilson) が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、2人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまで上がったが行方不明になる。シェルパ2人は生還し、ウィルソンの失踪を報告した。
1935年、イギリス第5次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見(日記には、登山経験のないウィルソンの失敗の経緯が綴られていた。遺体は近くのクレバスへ埋葬された)。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン (Bill Tilman) がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが、のちにエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加した。
1936年、イギリス第6次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが、年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン=ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国。「最低の遠征隊」と酷評されることになる[24]。
1938年、イギリス第7次遠征隊。隊長はビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。